写真のない旅行記

カメラを持たずに旅した記録です。雑記も載せています。

06  網走からオホーツク6号で(2000年11月26日)

 網走に着いてから、町に出て一巡りしたあと、食事でもしようと思いました。でも網走駅は市街中心地から離れていて、案外時間がかかってしまいました。帰りの列車ははじめ17:19発のに乗ろうと考えていたのですが、する事もないし、帰るのが23:00過ぎになってしまうので13:30発のにしようかと考え出しました。でも滞在時間45分では食事は無理です。歩いて網走駅まで戻って13:30に間に合えばそのまま乗って、間に合わなければ食事をして次の列車に乗ろう、ということにしました。結局発車2分前に駅に到着。「オホーツク6号」で帰ることになりました。

 

 網走の町は一通りのものがありましたが、市街には小さなスーパーしかないです。あと食堂をちらっと見たら田舎料金で結構高かったです。

 

 帰りは意外にも混んでいました。停まる駅ごとに乗客が並んでいて、北見でついに立席が出る有様でした。行きの時もそうだったのですが、遠軽のかにめしの予約を車販嬢が受け付けていました。昼食を食べていないので当然予約。結構多くの人が予約していました。遠軽について待っていましたが、混んでいたせいか、あるいは、予約が多かったせいか、持ってくるまで20分かかかりました。車販嬢は行きも帰りも6時間近く働くのですから大変です。私なんか乗っているだけでも疲れたのに。

 

 遠軽のかにめしはよそのものとはちょっと違っていてスクランブルエッグ(?)がのっていたりしてはじめ「えーっ」て思いましたが、食べてみると意外とおいしかったです。確か「岡村べんとう店」の製品でした。

 

 北見や遠軽から立っている人は3時間近くも大変そうだなあ、と思いつつも席を譲りません。旭川に着くと立席の人はいなくなりました。もう外は暗いのであまり面白くもなく、18:43札幌着。そごうの上のそば屋でそばを食べて、19:20分のエアポートで帰りました。千歳19:48着。

 

 追記 

 もう遠軽の駅弁も車販嬢も、札幌そごうも過去のものになりました。オホーツクも本数が減ってしまいました。あれから網走に行っていません。機会があったら行ってみてもいいかもしれません。

 

05  オホーツク1号で網走へ(2000年11月26日)

 今度は2000年の11月に網走まで往復したときの記事です。どうもこの年はやたらに旅行をしていたようです。20年前のことで、記録に残してある以上の記憶は曖昧なのですが、この頃、「1万円きっぷ」というのがあったようです。前月に利用した「超割」のまねだったのかもしれません。以下は当時書いたものです。

 

 今年(2000年)は自分でもあきれるくらいよく旅行した年になりましたが、このところどうもパッとしませんから、この際またどこかへ旅行してみたいな、と思います。で、「1万円きっぷ」は都合がいいな、と思ったわけです。私は一応、根室・網走・稚内まで行ったことがあるので、新たな乗りつぶしは期待できません。行くとしたらどこがいいか、と思ったのですが、道南はいつも通り過ぎるのであまり気が向きません。北見とか、名寄とか、釧路とか、あまり普段行く用事のない町にふらっと行くのもいいかな、とも思いますが、日帰りなので時間が限られています。一泊するといいのかもしれませんが、無理でした。

 

 ということで、11月26日、日曜日にまた網走まで行って来ました。釧路に行こうか網走に行こうか迷ったのですが、何となく網走に行くことにしました。(その当時で)13年ぶりです。そのときは行きは夜行、帰りは夜の特急だったので石北線を昼間に乗ってみたいと思ったのです。

 

 なんだかバカバカしい気もしましたが、1万円につられて切符を買ってしまったので仕方ありません。6:09千歳発。朝どきの千歳線は便が悪く、この列車が一番列車ですが、この列車に乗らないと7:24発の「オホーツク1号」に間に合わないのです。6:49に札幌着です。30分ほど待って「オホーツク1号」乗車。駅で「やまべ鮭寿司」を買って食べました。景色はパッとしません。滝川や深川をみて、「この町は住めそうだな」とか、「この町はどうだろう」なんて見ていました。

 

 まあまあの乗車率でしたが、意外にも旭川でかなり降りて、思ったほど乗ってこず、車内は10人いるかどうかになってしまいました。石北線は冬のせいかどうも景色がいまいちでした。しかし並行する道路橋は立派ですね。遠軽で方向転換。これもどうにかならないのでしょうか?遠軽駅を移転させればいいのですが、それだけのメリットがないのでしょう。それからまた一時間も走って、北見でますます客は減り、ガラガラです。北見はまあまあの町です。デパートもあるし(当時)。でもまたそこから網走まで一時間近くかかるわけですから大変です。湖が見えて網走着12:43。5時間20分もかかりましたので、疲れました。

 

 続きは次回に。 

 

04 「超割」で千歳~東京日帰り旅行(2000年10月1日)

   先日の2000年夏の旅行記で、超割で東京日帰り往復航空券を衝動的に購入した、という記述がありました。「超割」というのは、全日空で全路線1万円、というセール料金でした。これで2000年10月1日に千歳から東京日帰り往復を実行したときの文章です。ですがこの文章、断片的でまとまりがなく、時系列的に書かれているわけでもありません。まあ、埋め草として載せておきます。

 

 たしか10時半の飛行機で東京へ、夜は9時過ぎの飛行機で千歳に帰ったはずです。都心へ往復モノレールを利用しました。以後は当時書いた文章です。 

 

   行きは10時半の飛行機でしたが、かなりすいていて意外でした。自動チェックインを利用したのですが、窓際が満席と表示されていたのに乗ってみると自分の反対側の席は窓際が空いていました。帰りは詳細に指定できることを知り、今回は窓際満席表示にも関わらず数席空いていた窓際ゲット。まあ帰りは夜なので意味がなかったですが。帰りは満席のようでした。最終便は混むようです。

 

   行く前は行くところのあてがなく、等々力渓谷というところがおもしろそうとか、目黒・目白以外に目青・目赤・目黄と東京には5不動あることを知り、それでも巡ろうか、などと漠然と考えていましたが、結局行ってみるといつも通り神田・秋葉原・新宿・上野近辺をうろうろしただけでした。

 

 買う物もないのでアメ横で松茸2500円を2000円に負けてもらって衝動買い。でも食べてみると全くにおいなし。ニセ松茸のようでした。12本もあったので職場の人にお裾分けしましたが、恥をかきました。

 

 秋葉原では「インターネットが速くなる」というソフトを1000円で買いました。この日朝、インターネットで沖縄行きを入手し損なっていたのでこれまた衝動買いです。まだパソコンには入れていません。何か買い物でもしなくては、という強迫観念があって意味もなく衝動買いしてしまいました。

 

 神田の古本屋は日曜にもかかわらず意外とやっているところも多かったです。まあ、この前、日曜に行ったときの失望感が大きかったせいかもしれません。しかし収穫なしです。

 

 食事は昼は神田でカレーでした。でもこれは失敗。インド風のスープカレーで辛過ぎです。秋葉原でインド人がやっていた屋台のカレーがおいしそうだったのですが、屋台もなあ、と思い、神田に行ってからカレー店にはいったのですが、こんなことなら屋台で食べればよかったと感じました。ちなみに毎度おなじみの松栄亭は日曜休みです。

 

 昼が遅かったので夜は軽くそばでも、ということで夜はそばを食べることにしました。そばといえば神田の「やぶそば」「まつや」が思い浮かびますが、「やぶそば」は私が読んだ本や知人がぼろくそに言っていたので敬遠。「まつや」は休み。ということで「やぶそば」の有名店の一つ、「上野やぶそば」に行きました。こちらの方が同じ「やぶそば」でも庶民的だと書いてあったので。

 

 ざるそば(こうよばずに違った呼び方をしていた)750円也。東京の有名なそば屋は盛りも少量でつゆも濃く、これまた少量です。でもおなかが空いていなかったせいと、東京のそば屋は少量だという思いこみがあったせいか、食べてみると思ったほど少ないわけでもないし、ちょうどよい分量で冷たく味も良し。確かにつゆをちょっとだけつけた方がおいしいです。その場の気分とおなかの空き具合、そしてある程度の予備知識があったせいでしょうが、満足して帰りました。


 今回の東京行きは、御徒町→神田→小川町→新宿→新宿御苑前淡路町→神田→御徒町、という具合に移動しました。なんだか効率的な動きでないのは、地下鉄を休憩場所として利用したからです。新宿ではなにもしませんでしたが、歩行者天国で何かのプロモーションビデオでも撮っていたのか、狂ったように踊っている少女がいて、これはなかなか凄まじいものがありました。

 

 (追記)

 多分、アメ横がある御徒町駅を拠点に動いたのでしょうね。浜松町から御徒町に行って、帰りはそこから浜松町に行ってモノレールに乗ったものと思われます。

 

 あと、この日多分正月の沖縄行き「超割」を入手しようとして失敗したのだと思います。この頃、沖縄へ行こうとするたび、何らかの事情で行き損なう、ということが4回ぐらい続いていました。なにか呪われているのでは、と当時不思議に思っていました。

08 1967年 複雑怪奇な東北の分割併合列車

 かなり以前のことですが、「時刻表復刻版」にはまっていました。昭和40年代編の面白いこと。一万円以上出して買った価値がありました。特急、急行が綺羅星のごとく並んで素晴らしいです。今の時刻表は当時と比べると相当見劣りします。

 

 いろいろ眺めるわけですが、今回は東北旅行記のあと、ということで、東北地方ローカル急行の話。当時の東北急行は分割併合を繰り返して走る列車が多いのですが、その回数が半端ではありません。特に急行「むつ」「陸中」を中心として繰り広げられる分割併合は訳が分かりません。図を書いて確認したところ実に12種類の列車が東北各地で分割併合を繰り広げるのです。

 

 当時の東北本線は線路容量が厳しかったのでできるだけ併合列車を走らせようとしたらしいですが、確認するだけでも一苦労でしたから、このダイヤを思いつき、作った人の頭はどうなっているのか、と思います。そしてこれは単なる机上遊戯ではなく、これらの列車を毎日運行していたのかと思うと気が遠くなります。こんな列車をきちんと時間通りに運行していたのですから、旧国鉄の運行は正確だったはずです。

 

 その問題の分割併合を紹介します。急行「むつ」「陸中」はどちらも秋田発仙台行き。しかしルートが凄まじいのです。前者は青森経由。後者は花輪線・山田線・釜石線経由。

 

 以下は図でも書いて確認してみて下さい。昭和42年(1967年)10月のダイヤです。

 

 秋田を出た「むつ・陸中」は大館で分割。「むつ」は青森で鮫行きを併結。尻内(現八戸)で鮫行きを分割。鮫行きは普通になって八戸線を走ります。「むつ」はそのまま仙台に向かいます。

 

 一方「陸中」は大館から弘前発の「第2みちのく」を併結。花輪線を走ったのち、盛岡で分割し、「第2みちのく」は宮古からやってきた同名列車を花巻で併結。さらに小牛田で鳴子発の同名列車を併結し、三層建てとなって上野に向かいます。

 

 「陸中」は山田線・釜石線を経由して花巻に戻り、今度は「くりこま」と併結します。この「くりこま」がまたくせ者です。臨時で松尾鉱業線東八幡平から花輪線に入ってきた普通列車を盛岡で併結するのですが、この臨時列車、花輪線大更から盛岡まで大館から走ってきた普通列車と併結になるのです。盛岡でこの普通と離れ、前述のように「くりこま」に併結されますが、「くりこま」は盛岡で急行「さかり」も併結します。

 

 花巻で「くりこま・陸中・さかり」と三層建てになりますが、松尾鉱業線から来た普通も併結しているので、実質四層建てです。さらに一ノ関で「さかり」を切り離し、今度は盛発の「むろね2号」を併結します。そして「くりこま・陸中・むろね2号」として仙台に到着します。

 

 これで一件落着かと思いきや、分割された「さかり」は、一ノ関で今度は仙台発の下り「むろね2号」と併結して盛に向かうのです。

 

 整理すると、この一連の分割併合には以下の列車が絡んでいます。

①むつ     秋田→仙台(青森経由)
②陸中     秋田→仙台(花輪・山田・釜石線経由)
③第一みちのく 弘前→上野(花輪線経由)
④第一みちのく 宮古→上野(釜石線経由)
⑤第一みちのく 鳴子→上野
⑥普通     青森→鮫
⑦普通     大館→盛岡
⑧臨時普通   東八幡平→仙台(?)
⑨くりこま   盛岡→仙台
⑩さかり    盛岡→盛
⑪むろね2号  盛→仙台
⑫むろね2号  仙台→盛

 

  思いついた人も思いついた人ですが、通常時でも10本、臨時列車が走っていた時期は12本、分割併合を毎日にやって本当に線路上を走らせていたのですから、気が遠くなります。当時の国鉄職員はすごかった、としか言いようがないです。

 

 ここまですごいのはないでしょうが、それでもこのころの東北ローカル急行は5~6本の分割併合を繰り返す列車がざらにあります。また何か発見があったら書いてみようと思います。

 

 図を作って掲載しようかと思いましたが、手書きでも掲載できるようなものはうまく作れませんでした。まして私の低IT能力ではパソコンで作るのは無理。誰か作って送ってください。

04 ラジオ体操を覚えていますか?

 5月は在宅勤務の日が多くなりました。一応真面目に仕事をしました。メンタル面では調子良かったのですが、一日中パソコンに向き合っていたので、さすがに眼精疲労がひどくなりました。仕事内容はストレスがたまらないとはいえ、一応在宅勤務ということでパソコン相手に根を詰めてやっていたので目が疲れたのでしょうね。

 

 ということで先日、夜に部屋を暗くして休んでいました。本当に眠ったのは0時ぐらいになっていたと思いますが。

 

 翌朝、やはり早く起きます。この家に転居してから、東向きで朝日が差し込むので、朝の弱い私が早起きです。おそらく今後、毎日職場に行くようになるとグダグダしてしまうのでしょうが。

 

 いつもの朝は民放のラジオをつけるのですが、NHKをつけてみました。6時半にラジオ体操があります。たまにNHKラジオをつけることもあるのですが、そのときはラジオ体操の時間になると、番組の流れが途切れたような気がして鬱陶しく思っていました。それで民放を聞くようになったのですが、非日常の生活だからか、この日は珍しく、ラジオ体操をやってみる気になりました。前の家では体操をやるスペースがありませんでした。この家は今のところかろうじてスペースがあります。

 

 しかし藤山一郎がつくったという歌から始まり、古くさい番組です。ラジオに合わせて実際にやってみると、何十年かぶりなので、一部思い出せません。あれ、と思ってしまいます。気になったまま、終わってしまいました。早速youtubeを探して動画を見てみます。やはりいくつかの体操が全然違っていました。ときどき「体が覚えている」ということを言う人がいますが、私は体で覚えることが苦手です。

 

 まあしかし考えてみれば、体操なんぞ、動画で見た方が絶対いいです。確かテレビ体操というのもあったはずですが、テレビは外に持ち出せませんから普及しなかったのでしょう。でも、今は携帯やノートパソコンがあるのでそれでいいわけですね。日本はこういう過去の遺物みたいのがあちこちに残っているのではないでしょうか。

 

 今回のコロナ騒ぎでハンコ文化がやり玉に挙げられていますが、日本はそういうものがあちこちに残っているのでしょうね。私自身はそういうものを愛でたい方なのですが。

 

 皆さんは最近ラジオ体操をやったことがありますか?