先日の「安倍内閣退陣表明を受けて」の記事以来、ときどき政治について思っていたことを書くようになってしまいました。「アップダウンクイズに出た話」の時に書きましたが、私は子供の頃の一時期、政治家にでもなろうか、と考えていた時期があります。今思うと赤面もの、今は絶対なりたくない、政治家という人種とはいちばん遠い人間になってしまいました。
そもそも、政治家になるという人は、よほど面の皮が厚い、よく言えばタフなメンタルをしているのだと思います。昭和の田中角栄氏などもそうでしたが、特に平成期の竹下登氏、森喜朗氏などは、人格的なことまで含めて、もうむちゃくちゃに叩かれていました。竹下氏を見ていて、普通の神経では政治家は務まらない、と思ったものです。
今、ネット記事でよくみかける安倍批判といえば、室井佑月氏。この人が書いた「AERA」に配信されている記事を読むと、何でもかんでも「安倍が悪い」に結びつけてしまうような印象を持ってしまいます。つぎに浜矩子氏、この人も「AERA」配信の記事で「アベノミクス」のことを「アホノミクス」と呼んで批判しているのですが、先日の記事は、論理的な批判というより悪口の類で、ではどうすればよかったのか、ということが見えてきませんでした。コラムだから、とは思いますが、経済学者なのだから、もうすこし対案を出すとか、納得できる批判をすればいいのですが、「批判のための批判」になっていて、正直なところ、経済学者とは思えない書きぶりだと感じてしまいました。
もうひとり、朝日の高橋純子氏という論説委員か編集委員の記者がいるのですが、この人が朝日に書くコラムも毎回いかがなものか、と思うものが多く、日常生活の話から入って安倍内閣批判というより揶揄に持っていくというものばかりです。朝日系のメディアがこのような記事ばかり載せているので「アカヒ」とかいわれてしまうのでしょう。
同じ朝日でも経済論説担当の原真人氏は、一貫して財政規律論からのアベノミクス批判を繰り広げています。今や右も左も「反緊縮」で、このような議論を展開する原氏は孤立無援の感がありますが、こういう批判なら納得できます。
私も批判者を批判してしまいましたが、これらの方々は、批判が来ることを承知のうえ、実名で批判の論考(というよりコラム、か?)かを出しているのでそれはそれで勇気のあることで、私の及ぶところではありません。
私なんぞはメンタルが極めて弱く、ちょっとした仕事上の対立や人間関係のいざこざでも参ってしまい、寝込んでしまうような人間になりました。知人友人も少なく、選挙に出ても誰も投票しないだろうし、立候補しても落選確実、しかも落ちたらショックを受け、鬱になって自殺、というところでしょう。
こんな記事を書いているくらいですから政治に関心を持っていますし、選挙には必ず行きますが、立候補、ということになると、あり得ません。
ところで以前、元アイドルの自民党参議院議員である今井絵理子氏が「批判なき政治」ということを言ってそれがまた批判される、と言うことがあったように思います。政策が不適切な場合、あるいは政治家が私腹を肥やす等の行為がある場合は、批判されるべきですが、確かに批判が過ぎ、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」状態になるのもいかがなものかと思います。
批判されてもへっちゃらな政治家は、私とは人種が違う、と思うことは、政治を遠ざけることにつながります。ですから私は政治には関わりたくない、と思う人が多くなるのではないか、と考えてしまいます。
特に若い人たちは、社会生活の中で、傷つくのを避けるために、お互いの批判をする、ということを避けているように思えます。ディスカッションをする場合も 、個人攻撃はしない、建設的な議論をするように、と指導されるはずです。
私も傷つきたくないので、表面的にはそう振る舞うようにしています。もっとも、私の場合は、それでも他人を不快にさせることがよくあるようですが。
また話がそれました。それはともかく、そんな人たちが政治批判を身近なものに感じるでしょうか?「批判するなら自分でやってみろ」「対案を出せ」という言い方がありますが、「成否はともかくとして、頑張っているのになぜ批判するのだ」と、特に左寄り、政権批判的なマスコミに対して不信感を持っている人が多いのではないかと思っています。個人攻撃や「批判のための批判」では心に響かず、むしろ反感を持たれる結果を招くのではないでしょうか?若い人に安倍内閣支持が多いと言われるのは、そんなところに理由があるのかも知れません。
また、SNSでの誹謗中傷、「ヘイトスピーチ」などが問題となっている世の中です。政治家になるような人はだいたいメンタルがタフな人が多いものですが、それでも過去に疑惑事件などで糾弾され、死を選ぶ人がいなかったわけではありません。これまではそんな政治家がいても、「自業自得」のようにみられてきましたが、これからはそうも言っていられないかも知れません。
私も安全地帯にいて、あれこれ政治批判をします。でも批判されたくない、矛盾していますが、そんなところで「床屋政談」でとどまっている人も多いでしょう。自分のような「メンタルの弱い人」の代表が国会にも必要かな、そんな人が政治家だったら身近に思うかも知れない、と思うこともありますが、そんな人は海千山千の政治家達の中で小さくなって埋没してしまうに違いありません。
民主主義的な代議政治に批判はつきもの、宿命であるとは思います。でも批判を受けてもへっちゃらな人は、何党であろうと、自分たちの代表ではないよな、という思いもあります。
少なくとも、もっとスマートな政治批判のあり方を探っていく必要はありそうです。これからは、批判されるべきポイントは権力の濫用であり政策の是非である、また、選挙などのためには人物評価も必要ですが人格を損なわない程度に、という視点が必要ではないでしょうか?