写真のない旅行記

カメラを持たずに旅した記録です。雑記も載せています。

02 幼児期の特急「雷鳥」と大阪の記憶

 多分、子供の頃に一番最初に乗った列車は、金沢から大阪に行くために乗った、特急雷鳥だろうと思います。幼児期、金沢に住んでいた頃に、父方の祖父母が大阪在住だったため、年1~2度、この「雷鳥」に乗ったはずです。何度も乗ったと思うので、うっすらとした記憶が重なり合っています。これから、1970年代前半の、幼児期に乗った列車と街の記憶を書いていきたいと思います。

 

 まだ新しい485(481?)系のボンネット特急。進行方向前向きのロマンスシート。前方の椅子の後ろに折りたたみ式の小テーブルがありました。トイレはまだ垂れ流し式だったようで、穴から線路敷が見えて怖かった覚えがあります。

 

 まだ湖西線はなく、米原経由の時代です。米原を過ぎると東海道本線に入りますが、貨物列車もいつも見慣れている国鉄コンテナだけではなく、色とりどりの民間会社のコンテナを載せた高速貨物列車が走っているのが新鮮でした。「新快速」も並行して走ることがあり、灰色と青のカラーリングはこれも目新しいものでした。山崎付近で「サントリー」と「セキスイ」の工場なのか、看板があったのをよく覚えています。東海道線のトンネルは北陸線よりつくりが古く、ちょっと怖かったのも覚えています。

 

 多分1973年、一度だけ米原から新幹線に乗って新大阪までいったことがあります。これが新幹線初乗り。このときは家族連れではなく、私と父親だけでいったような気がします。ですから新幹線に乗せてもらえたのでしょう。

 

 逆に1974年のような気がしますが、いつも乗る「雷鳥」の指定席がとれず、臨時の12系客車急行立山で大阪まで行ったことがありました。向かい合わせのクロスシートでいつもより時間がかかり、停車駅も多かったのでこれはよく覚えています。

 

  祖父母の家は京阪線沿線で、京阪電車は鮮明な記憶がありますが、宝塚に行ったのか、一度だけ茶色の阪急電車に乗った記憶があります。また、通天閣にいったかすかな記憶もあります。梅田の動く歩道とか、大きな百貨店(多分阪急百貨店)とネオン、噴水、次々に来る銀色の地下鉄、「虹のまち」とか、広告の看板に表示されている「大丸」とか「そごう」って何?連れて行ってもらえなかったので名前だけが印象に残っています。

 

 小学生以後はほとんど京阪線エリアと梅田周辺を連れ回された記憶しかありません。難波や新世界など「ミナミ」のエリアは幼児期の混沌とした記憶です。田舎者の幼稚園児は目くるめく展開する大都会に幻惑され、不思議の世界に迷い込んだような記憶を残しました。

 

 テレビも大阪に来ると普段見られない番組を見ることができました。大阪では、まだこの頃まで「紙芝居屋」がいたようで、一回だけ見た記憶があります。でも、私は子供が群がっているところがこの頃から苦手でした。

 

 大阪駅までタクシーで行くとき、当時まだあった路面電車阪神国道線の電車が見えたことも覚えています。小学校に入ってから大阪駅前に行くと、あったはずの線路と電車がなくなっていたので、あれは大都会に幻惑されて形成された思い違いだろうか、と不思議に思っていました。のちに「鉄道ファン」誌が何かで阪神国道線が1975年に廃止されたことを知り、あれは現実だったのだ、と知りました。

 

 宝塚だったか、エキスポランドだったか、遊園地で迷子になった記憶があります。私はよく迷子になる子でした。あちこちで迷子になった記憶があります。私の「迷子」は、道に迷うのではなく、同行者とはぐれるのです。そういう「迷子」には中学生の頃までなっていました。

 

  帰りは夜の列車になることが多く、暗くて酔ってしまったことがあったと思います。洗面所で吐いた記憶もあります。子供の頃までは「トラベルミン」を飲んで列車に乗っていました。あと、一度だけ「雷鳥」の食堂車で食事をした記憶がありますが、何を食べたのかは残念ながら覚えていません。カレーなのかハンバーグなのか…。景色の見られない帰りの夜の電車は嫌いでした。