写真のない旅行記

カメラを持たずに旅した記録です。雑記も載せています。

07  「さよなら80系」に乗る(1978年12月17日)

 私は子供のころから鉄オタでしたが、周囲に鉄オタ君はいませんでした。ですから友人と遊ぶことを好まず、一人で電車図鑑を見ているのが好きな子供でした。

 

 私は転校を重ね、4つの小学校に通ったのですが、最初の小学校は「お受験」をして入った幼稚園から小学校にエスカレーター式に上がるシステムのところで、「いいとこ」の子ばかり。うちは貧乏だなあ、と思ってコンプレックスを感じていました。

 

 途中で岡山市立の普通の小学校に転校したのですが、今度は逆に、クラスメートにがさつさを感じ、これまたなじめませんでした。

 

 そのうち岡山市内でまた転校したのですが、今度は家から山陽本線が見えるところでした。新幹線開通後だったので特急は当時まだキハ181系だった「やくも」と早朝の寝台特急だけで、数年前にここにいれば、山陽在来線特急のオンパレードだったのになあ、と残念に思ったものです。

 

 それでもこの地区に越してきて、はじめて鉄オタ君のクラスメートができました。あまり友人宅にはいかない私でしたが、土曜日の午後、駅前にあるこの子の家だけにはよく行きました。というのは、この家には「鉄道ファン」のバックナンバーがズラリとそろっていたのです。遊びに行く、というよりは、この「鉄道ファン」のバックナンバーを見に行くのが主目的のようになってしまいました。東海道線の「つばめ」「はと」「こだま」、廃止された山陽特急などのカラー写真が掲載されていて、子供の頃から懐古趣味だった私にとっては垂涎ものでした。

 

 どうもこの友人は本人だけでなく、お父さんも鉄道ファンだったようで、山陽本線蒸気機関車が走っていた時代の白黒写真も見せてもらったことがあります。

 

 そうこうしているうち、「さよなら80系」の運転があるから行かないか、ということになり、行くことにしました。友人とその父親に連れられて、というのは私の人生唯一の経験でした。

 

 1978年、既に山陽本線岡山以西は普通列車115系6両編成が基本で、まれに誰も乗っていないグリーン車つき153系10両編成、そして快速が153系6両編成、という状況でした。そして、この年秋まで昼に一本、12時頃に80系湘南電車の列車がありました。学校に行っているときは見ることができないので、夏休みだけ眺めていた記憶があります。あと、やはりこの年秋まで、夕方にデッキつき貨物機EF15の牽引する貨物列車が一本だけあった気がしますが、思い違いかも知れません。

 

 1978年の12月17日が、さよなら運転当日でした。まず、庭瀬駅から一度岡山駅に行き、始発の岡山駅から乗車したのだろうと思います。先頭車に乗りました。他の車両が全金属製だったのに、この車両だけ木製の車内でした。トイレに行ったら金属製ではなく、陶器製だったのが強く印象に残っています。

 

 岡山以西に行くのは初めてでしたが、車窓にあまりめぼしいものはありません。金光駅金光教の団体列車でよく見かける12系の列車が停まっていたこと、岡山・広島県境にトンネルがあったこと、高架線の福山駅で青とクリーム色の2枚窓の「湘南電車」が停車しており、当時70系横須賀線用につくられた正面は80系と同じで側面が3扉の電車)の存在を知らずにいた私は「あの電車は何なのだろう?」と頭の中が「?」だらけになったことを覚えています。当時福塩線で使用されていたことはあとになって知りました。

 

 車両に気をとられてばかりの私でしたが、終点近くの尾道~糸崎間では車窓から海が見えます。車窓から海を眺めたのは生まれて初めてで、強い印象が残りました。

 

 終着の糸崎につきました。この頃は「糸崎行き」という電車が多かったのです。そこで友人の父親に連れられて昼食。駅前の大衆食堂です。うちは外食でこういう大衆食堂的な店に入ることはほとんどありませんでした。しかし、ここで食べたおでんの玉子がよく煮込まれていて、真っ黒。これが大好物になり、以後家でおでんを食べるときも玉子を好んで食べるようになりました。

 

 帰りは薄緑色に塗色してある金属製の室内の車両でした。これまた海を眺め、その後は特に変わったことのない車窓、倉敷駅に旧型の客車か国電かわかりませんでしたが、古い車両が留置されていました。

 

 一応岡山駅まで行ったのだと思います。そして自宅の近くの庭瀬駅まで戻ったのでしょう。その辺の記憶は曖昧です。残念ながら時刻の記録は残っていません。

 

 そのあとまた転校しました。クラスメートだったそれまで親しくなかった女子生徒から手紙が来たりしましたが、鉄道ファンの友人は手紙を書く趣味はなかったようで、その後数年間年賀状が来た程度。音信不通となりました。

 

 一方、山陽線の在来線から見えた尾道の海の印象は強烈で、この町に憧れを持つようになりました。中学生の時、どうしても行ってみたくなって、普通列車を乗り継いで行くことになります。それはまた別の機会に。

 

 この小旅行、珍しく母親のカメラを借りて写真を撮っています。何度も転居を繰り返しているうち、どこに入れたか、忘れていました。捨てた覚えもないので、探してみると、荷物の中からようやく出てきました。どうしょうかな、と思いましたが、このブログでは原則、写真を扱わないことにしていますし、それ以上にまともに写っている写真がほとんどなく、掲載しないことにしました。ただ、一緒にしておいた記念乗車証も出てきましたので、これを掲載しておくことにします。乗車証が出てきて乗車した日の正確な日付がわかりました。

 

 

 

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