今回は私としては極めて珍しい、複数行動での撮り鉄記録を思い出して記していきます。といっても今回は記録を残しているわけではなく、記憶をたどって書いていきます。何時にどの列車に乗ったか、という記録も残っていません。中学生の時のことだったはずです。
1981年のゴールデンウィーク(当時の天皇誕生日4月29日だった気がする)だったかと思うのですが、友人が少なく、単独行動主義の私が、珍しく近所の子と鉄道写真を撮ることになりました。私は部活をしていなかったのですが、あちらはサッカー部の子でした。そういう体育系の友人はほとんどいないのでしたが、どうしたことか、どちらから言い出したのかよく覚えていませんが、とにかく、2人で行くことになったのです。
当時山口県の宇部市に住んでいました。早朝に宇部新川駅まで行きます。当時すでに宇部線は朱色の105系化されていたのですが、早朝に一本、小野田線の支線である長門本山行きの電車が設定されており、この電車だけは旧型国電でした。まずはこれを撮影します。
そのあと、下関に行きます。下関は当時、ブルートレインが関門トンネル用のEF30やEF81系に機関車交換をするために停車していた駅でした。ここで「さくら」や「はやぶさ」の写真を撮りました。
そのあと、山陽本線で当時の小郡駅まで行き、そこからディーゼルカーで山口線の上郷駅と言うところまで行きました。そこの近くの鉄橋でSL「やまぐち号」の写真を撮ろう、というわけです。
かなり待って写真を撮った記憶がありますから、津和野から戻ってくる列車を撮ったのでしょう。山口線には特急「おき」も走っていましたが、それを撮った記憶がありませんから、この時間帯には通過しなかったのではないかと思います。
ようやく「やまぐち号」がやってきて、写真を撮りました。ですが待ち時間は退屈ですし、母親から借りたチャチなカメラで、できあがった写真も非常にできが悪く、手元に残っているのですが、公開するのに耐えません。
写真そのものは先日引っ越しの際に発掘して残っているのを確認したのですが、非常に悲惨で、まともに写っているものが1枚もないのです。しかも「やまぐち号」の写真はありません。おそらくフィルムが切れたか、それに気づかず撮影してしまい、写真を撮れなかったのでしょう。この経験に懲りたのだと思います。
以後、その友人とは同じ高校に行きましたが、あっちはサッカーに夢中ですし、一緒にどこかに行くと言うこともなく、こちらは撮り鉄はあきらめ、この頃宮脇俊三氏の著作を読むようになったこともあって、もっぱら乗り鉄派になってしまいました。
ということで、撮り鉄をあきらめたときの記憶を書いてみたのですが、内容のない記事になってしまいました。