写真のない旅行記

カメラを持たずに旅した記録です。雑記も載せています。

37  「差別」と「好き嫌い」と「批判」と

 最近ときどき思うことに、「差別」と「好き嫌い」の境目って何なのだろうか、ということがあります。

 

 韓国に対してあれこれいうと「差別」とされることがあります。でもかなりの人の韓国に対する批判的な言葉は「好き嫌い」から発しているようにも思うのです。韓国が執拗に歴史問題を言挙げしてことに対して日本人が「嫌い」という感情を持つことはわからないでもありません。毎日ネットで報道される韓国の政治家や市民運動家の「反日」的言動からは日本が嫌いで仕方がない、という感情がありありとうかがわれます。

 

 でも日本で「韓国が嫌い」というとヘイトスピーチひいては「差別」とされかねません。そこでふと思ったのですが、例えば、野球の「巨人が嫌い」というのと、これはどう違うのだろうか、ということに思い至ったのです。

 

 私は野球があまり好きではありません。そしてプロ野球の巨人が好きではありません。その理由は先々記事化することがあるかも知れませんが、アンチ巨人である理由のひとつに「アンチ東京」という感情がなくはありません。私はあちこち転居したくせに東京居住経験だけがないのです。そこから東京に対して微妙な感情がないわけではないのです。

 

 「巨人が嫌い」というのは地域感情だけでないのですが、私の個人的感情はさておき、昔は今よりもプロ野球の世間の話題に占めるパーセンテージがずいぶん高く、しかも巨人中心でした。ですから「巨人ファン」と「アンチ巨人」に大きく分かれ、しかも「アンチ巨人」はかなり巨人のことを口汚く罵っていたように思います。

 

 でも今は昔ほど口汚い「アンチ巨人」的言辞を聞かなくなりました。プロ野球そのもののウェートが小さくなったこともあるでしょうし、人々がお上品になったのかもしれません。今、昔みたいな感覚で「アンチ巨人」的言辞をネットに載せてしまえば「炎上」してしまうのではないでしょうか?

 

 今の時代、例えば巨人の選手に対して「ボケカス」などと書くものならかなり強く批判されてしまうと思います。「一生懸命やっている選手をけなすなんてひどい」といわれそうです。

 

 では政治家ならどうか?これはいまだにボロクソOKです。ネット上では政治家をボロクソにかいたコメントがあふれています。政策批判と言うよりは、一般人に対してであれば許されないような人格攻撃がいまでも政治家に対してはまかり通っています。並みの神経では政治家は務まらず、普通の人は政治家になろうと思いません。これが逆に政治と我々を遠ざけてしまっているように思いますが、話がそれますのでこれはまたの機会に論じましょう。 

 

 まとまりのない文章になってしまいましたが、それはまだ私の頭でこの3つが整理されていないからです。「差別」と「好き嫌い」と「批判」の3つ、どこら辺が境目でどの辺までが許されるのか、もう少し考え続けて、機会ができたらまた記事にしてみたいと思います。