今回のオリンピック、日本で開催する国家的イベントとなるはずでしたが、コロナ禍でずいぶん批判が多いままに終わりました。
私が大変嫌うものに「同調圧力」があります。自分の好きなこと、やりたいことに他人を巻き込もうとして引っかき回すのですね。当人には人を困らせているという自覚がないことも多く、振り回されると心が乱されます。私の偏屈ぶりは、この「同調圧力」への反発で形成されてきたと思います。
孔子の「論語」に「己の欲せざるところを人に施すことなかれ」というのがあったと思いますが、これは言い得て妙で、「自分のやって欲しくないことを他人にやってはいけない」ということであり、「自分がやって欲しいことを他人にやってあげなさい」と言っているのではないのです。自分がやって欲しいこと、あるいは好きなことは他人にとってもやって欲しいこと、好きなことであるとは限らないからです。
今回のオリンピックに話を戻しますが、私は先日来書いてるように、開催をめぐるあれこれのドタバタや開閉会式などには関心があっても、競技自体には全く関心がありません。ですが、好む好まざるに関わらず、どういうことになっているかということは目に入ってきますし、聞こえてきます。
昔はプロ野球がそういう状態で、興味がなくてもどこが優勝したかとか、順位はどうだとかいうことが聞こえてきて、知っていました。どこの球団のファンか、ということをいわなければいけないこともありました。興味がないのは変わり者扱いでした。
このところはプロ野球に関してはそういうことはなくなったようで、私は現在どこの球団が一位か、なんてことを知りません。新聞のスポーツ面を飛ばしてしまえば、目に入らなくなっています。
これは好ましいことで、昔は野球にわだかまりがありましたが、このところはかなり薄れています。好きな人が関心を持ち、応援したりすることは私に影響が及ばない限り、全くかまわないことです。
今回のオリンピックでも、同調圧力は相当弱まったように思います。ある方から「競技は見なきゃ」といわれたので、正直ゼロではありませんでしたが。これさえなければもう少し平静な気持ちでオリンピックをやり過ごすことができたと思います。世間一般的にはどうなのでしょう?職場でも全くといっていいほど話題になりませんでした。好きな人たちは話題にしていたのでしょうが、私が巻き込まれることはなかったわけです。
ただ、マスコミでは「応援」や「感動」や押しつけがやはり目に付きます。今回は一方で中止論をぶっておいて、一方で競技そのものを大きく報道するという矛盾が見られましたが。私は世の中が一色に染まるような「空気」が好きではありませんので、正直よかったと思っています。
オリンピックの枠内で「多様性」を訴えるよりも、こうした賛否両論の中で行われる、という方がより「多様性」をもたらしたと思います。オリンピック賛成。感動一色では、かえって息苦しかったでしょう。
ただ、国家的イベントで、無観客だったこともあり、ツケが残ります。表面的には影響がなかったことでホッとしているのですが、目に見えない負担が残るのかも知れませんね。