昨日は「私は趣味第一の人生を歩んでしまった」ということを書いてしまいました。結果、結婚も子育てもしない人生を歩んだわけですが、では、どうすれば結婚して子育てをしただろうか、ということをときどき考えます。
おそらく相当な結婚圧力がないとしなかったでしょう。周囲はみな結婚して、していない人間は白眼視され、差別されるような状態にならないとしなかったのではないでしょうか?自分からは積極的に動かなかったでしょうから、お見合いで不承不承で妥協して、というところだったでしょう。そして離婚したいけどできない、という状況に陥ったのではないでしょうか?
差別で思い出しましたが、一度だけ結婚していないことで「差別」されたことがあります。それは若い時分に家を借りるとき、マンションの少し広い部屋を借りようとしたら、「夫婦でないと貸せない」といわれて貸してもらえなかったことです。結婚していないことで不利益を蒙ったのはこのときだけです。逆にいえば結婚していないことで不利益を蒙ったのはたった1回だけ、ということにもなります。
私は恋愛感情が希薄なのかな、という気はしますが、何か他の要素がないと結婚しなかったでしょうし、結婚したとしても子供を作らなかったように思います。この歳になっていうのも変ですが、結婚以上に子育てをしている自分が想像できません。
恋愛にせよ、親子愛にせよ、どうも希薄なようです。それゆえひとりを好み、ひとり者の人生を選んだのでしょう。
昔は自分でも変わり者だなあ、と思っていたのですが、近頃の少子化を見ると、どうもそうではなさそうだぞ、という気もしてきました。現代日本社会を生き抜くためのひとつの処世術だったのではないかと思います。老後は悲惨かも知れませんが、とりあえず多くの壁にぶつかりながらもこの年まで生き抜いて来れたのは、ひとり者だったからではないか、という気がするのです。
近頃私みたいなタイプが増えているようですが、それでは少子化になるはず、さらに未婚化も進むでしょう。少子化でもいい、という考えもあるでしょうが、恋愛結婚子作りをしてこなかった人間からの社会への提言をひとつ。それは、現代社会は愛情に頼りすぎではないか、ということ。
愛情は大変美しいのですが、決して楽なことばかりではないでしょう。見合い結婚も家同士の結びつきを図るための結婚も、近頃は非人間的とされるようですが、果たしてそうなのか、と思います。
また、子育ても社会が親の愛情に頼りすぎていないでしょうか?それゆえ、子育てが親にとって負担であるかのように見えてしまいます。愛情豊かな人ならいいのですが、そういう人ばかりではないでしょう。そこから児童虐待の問題なども生まれているように思います。
昔の「子宝」という言葉には、単なる愛情表現だけではなく、もっと即物的な、働き手の確保、ひいては老後の生活の確保、つまり一種の財産的側面があったと思うのです。
一般的に発展途上国の方が出生率が高いのは、社会保障や教育が不十分であることで、子供を育てるコストが少なく、個々の家庭にとって働き手としての見返りが大きい、という側面があるのだろうと思います。
現代日本には年金制度があるので、老後、子供がいない人でも最低限のやりくりができますが、反面、社会全体として少子化、生産年齢人口の減少を招いてしまいました。結果として「部分最適を求めて全体最適が損なわれる」状態になってしまったのではないでしょうか。
現代は結婚・子育てをめぐる旧来の考え方が否定されつつあるので、その結果として生じる少子化を受け入れるか、あるいは移民を受け入れるか、結婚と多産の奨励を図るか、という選択肢があるのですが、どれも受け入れたくない、というのが今の日本社会の世論ではないでしょうか。
従来、私はアジアからの移民受け入れがいちばん現実的であると思っていましたが、20~30年前ならともかく、これから日本に移民しようというアジアの人々はそんなにいないでしょう。
自分が種をまいたひとりとしていうのも何ですが、当面はこのまま少子化の道をたどっていくしかないのだろう、というのが実感です。
もし違う道を探るなら、「個々の愛情に頼らない結婚・子育て施策を検討してみては?」と思います。個々の愛情に頼るのではなく、特に子育ては「子育ての社会化」や、老人の年金制度に相当する制度を作らないとダメかも知れませんね。