写真のない旅行記

カメラを持たずに旅した記録です。雑記も載せています。

62  「引きこもり」&「孤独死」が夢ですが…

   ネットのニュースを見ると、「引きこもり」孤独死に関する記事が載っていることがあります。

 

   中学生の時だったと思いますが、新聞記事の片隅に、あるひとり者の老人男性が4000万円の預金と一億円の株式を残したまま死後に発見された、という記事が載っていたことがあります。周囲の話では、確か以前は工場勤めをしていたが…という話だったような記憶があります。

 

 今でいう「孤独死だったのでしょうが、当時は珍しい死に方で、「孤独死」という言葉もなく、多額の資産を残したこともあって、新聞記事になったのでしょう。

 

 新聞の片隅に載っていたこの記事を今でもよく覚えているのは、そこはかとなく、自分がその人に一種の憧れの気持ちを持ったからではないかと思います。何となくですが、そんな人生を送ってみるのも悪くないかな、と思ったのです。

 

 文学作品でも、世捨て人的な人生を送る話に惹かれたものです。結果、ひとり者の人生を送ることになってしまいました。

 

 今の私は、そんな資産を持っているわけではありませんので、嫌々ながら毎日出勤して、ダラダラ仕事し、帰って寝る、の日々。でも一生生きていくだけのお金があったら仕事を辞めて、ひとりで家に引きこもりたい、そして死んでいきたい、と思います。それで済むなら、ある意味、理想の人生です。

 

 また、昔の理想の死に方として「畳の上で死ぬ」というのがありました。今、私が「畳の上」で死んだら、孤独死として死後発見されるでしょう。ということは私にとって理想の死に方は「孤独死ということになります。

 

 もちろん、苦しまずに、介護のお世話などにならずに安らかに死ねるなら、という前提ですが、どうせ結局は誰もがひとりで死んでいくのですから、孤独死も悪くないな、と思います。

 

 孤独死は本人が困るのではなく、後始末をする周囲が困るのですね。ですから自分としては孤独死ができれば本望なのですが、誰が後始末をするのか、という問題が残ります。これが「孤独死」問題の本質でしょう。

 

 ひとり者はもちろん、配偶者に先立たれた夫や妻など、これからは孤独死が当たり前になりますから、孤独死の後始末、を社会がどうやってつけていくかを考えていく必要があるでしょう。あったこともないような遠い親戚に委ねられるようではこちらも相手も困ります。主として行政に委ねられるべき領域になのかもしれないし、あるいは企業に委ねるようになるのかも知れません。

 

 「引きこもり」も「孤独死」も、私にとってはある意味「夢」です。それで生きていき、死んでいけるなら、現代における一つの理想的な生き方、死に方と言えるのではないか、とさえ思います。そう考えるのは決して私ひとりではないでしょうが、むしろ現実にそうはならないからあくせくして働き、死んでいくのでしょう。

 

 ですから安易に問題視しないで欲しいのですが、一方でこうした生き方、死に方と社会がどう折り合いをつけていくか、が求められているのではないかと思います。そのような体制づくりが今後急務となっていくことなのだろうと思います。