写真のない旅行記

カメラを持たずに旅した記録です。雑記も載せています。

74  政治家に対する批判はどのあたりまで許されるのか?

 先日、兵庫県斎藤知事の不信任・出直し選挙の話を書きました。私は斎藤氏のパワハラが事実であればけしからん、という立場ですが、このところ、妙に斎藤氏に対する同情論がでてきているようです。特に若い人に多いということでした。若い人ほどパワハラに敏感であるはずなのにどうしてなのだろう、という疑問も見かけました。

 

 これは報道される事実関係への疑問とともに、報道や論評、それに対するネット上での斎藤氏へのコメントへの反発ではないか、と思います。こうした現象について、果たして、どの辺までが「批判」で、どのあたりまでが「誹謗中傷」なのか、そしてその影響が人々にどんな影響を与えるか、ということを考えることもあります。

 

 一般人のレベルでは「いじめ」や「誹謗中傷」はもちろん、「パワハラ」、さらに最近では「カスハラ」だとか、「モラハラ」だとか、様々な「ハラスメント」が問題になっていますし、それらについては良くないこと、というコンセンサスができつつあると思います。そして世の中全体にそういうことにはセンシティブになっています。

 

 私もそういう類の人間で、私のようなメンタルの弱い人間の場合、ハラスメントはもちろん、悪口や誹謗中傷、さらには批判の類でも参ってしまいます。有名人にはなりそうもありませんが、こういうものには耐えられそうもありません。

 

 一般人のみならず、スポーツ選手や芸能人への悪口、誹謗中傷もやめるように言われるようになりました。私は野球場で試合を見るということはありませんが、昔はプロ野球選手はもちろん、高校野球あたりでも口汚いヤジというものがあったようでした。でも、近頃はそういうのもしないように、といわれるようですね。野球選手なんてメンタルが強そうですが、今どきの野球選手はそうでもないのかもしれません。

 

 芸能人もいろいろ言われてそれを苦にする人もいるようです。韓国ではネット上の悪口を苦にして自殺した芸能人もいました。

 

 ところが、この2つと並ぶ「三大有名人」の政治家に対しては、いまだに何でもありという感じになっています。

 

 スポーツ選手や芸能人、さらには一般人に対してもそうでしょうが、批判と誹謗中傷の境目は難しく、政治家は両方あり、みたいになっています。

 

 政治家の場合、権力を持っている、という点が一般人やスポーツ選手、芸能人と違うところで、批判なしでは済まされないところはあると思います。

 

 しかし、歴代首相では古くは竹下登氏、森喜朗氏、さらに鳩山由紀夫氏や安倍晋三氏への「批判」は誹謗中傷に近いものがありました。私などよく耐えられるなあ、と思ってみていました。

 

 それに耐えられる人でないと政治家になれない、というのもどうかと思います。今の民主政治はメンタルが強い人しか参加出来ない仕組みになってしまっています。私のように「批判」程度でも病む人もいるでしょうからね。

 

 さりとて賞賛ばかりだと中国や北朝鮮のようになってしまいますし、さじ加減が難しいところであると思います。

 

 河野太郎氏のXブロック問題などもこういう問題に通じるところがあるのでしょう。

 

 安倍内閣時代には、アベ政治を許さない」というスローガンがありましたし、札幌で裁判になった「安倍やめろ」のヤジもありました。ネットで安倍氏のことを「下痢便」とよぶ言い方も見かけました。

 

 安倍元首相の例を出しましたが、この3つを並べて、最後のものは誹謗中傷でしょうが、前2つはどのあたりで「批判」と「誹謗中傷」の境目になるのか、微妙なところだな、と思います。

 

 国会でも石破新首相の所信表明演説へのヤジがひどすぎる、という批判もありました。「ヤジ」というものもアリなのかナシなのか考えさせられますし、では「風刺」は?などとも考えてしまいます。

 

 若い人は子どもの頃から、「いじめ」をしないよう教育されているので、政治家に対する批判的報道の行き過ぎにも敏感になっている、とも聞きます。それが斎藤氏への同情につながっている可能性もあります。 

 

 皆さんは、政治家に対する「批判」と「誹謗中傷」についてどう考えていますか?どのあたりまでが許されると思いますか?