写真のない旅行記

カメラを持たずに旅した記録です。雑記も載せています。

70  香港料理店で「香港飲茶定食」を食べたのですが…

  以前近所にテイクアウト専門の香港料理店があったのですが、ここはすぐ閉店してしまい、少し離れたところに普通の食堂として移転開店していました。春になって徒歩でも少し遠出できるようになったので、移転後初めて行ってみました。

 

 近くの店は具体名は伏せるようにしているのですが、この店、香港料理と銘打っています。ということで行ってみると、「4月からの新メニュー」ということで、「香港飲茶定食」なるものがありました。ただし1500円。物価高騰の折、お安くはないお値段です。でもせっかく行ったので注文してみました。

 

 まず前菜、ピリ辛野菜の和え物。その後ポットに入ったお茶がやってきましたが、ウーロン茶。一分ぐらい蒸らしてください、ということでした。確かに最初の一杯は薄かったです。それと、もう少し香港らしいお茶の方がいいのですが。そして蒸籠に入った餃子3種類1個ずつ。ちょっと熱いです。

 

 そして春巻ごま団子が来ました。ごま団子はデザート扱いにして最後に食べることにします。

 

 そしてその後におかゆが来ました。このおかゆの他にビーフンがつくので、おかゆは余計だな、これを入れないで安くすればいいのに、と思っていたのですが、いざ食べてみると、これが期待していなかったせいか、意外と美味。鶏とホタテが入っていましたが、出汁がきいています。

 

 そしてビーフ。香港風とシンガポール風から選ぶことになっていたのですが、今回はシンガポール風をチョイス。やってくるとカレー味でしたが、ちょっと辛かったかな、と感じました。

 

 で、量は多かったのですが、ごま団子、お茶も含めて完食。悪くはありません。でも、やはり値段が高いので美味でしたがおかゆまではいらないかな、と思います。あるいはビーフンとおかゆの選択式にすればいいのかもしれません。

 

 昼時だったせいか、結構混んでいました。ですが客は老人が多いです。年金生活者のように思えるのに、こういうそれなりの値段の店で食べられるのか、と思います。

 

 それと給仕をしているのは若い、というか、40代ぐらいか、と思われる男女2人でしたが、厨房で腕をふるっているのは白髪の中国人のようでした。先日、すぐ近くの定食屋が結構繁盛しているのに料理人が高齢のためたった2~3年で閉店した、という話を書きましたが、この店も高齢のしかも外国人の料理人で、繁盛するかしないかにかかわらず、大丈夫かな、と思ってしまいます。

 

 このところ、近所の食堂の閉店が多く、土曜日はともかく、休業の店が多い日曜日は店の選択の幅が狭まっています。夏場はこの店に行けそうですが、値段もそれなりに高いし、うーん、と思いつつ帰ってきました。

54  労働力不足を補うのは外国人、高齢者、それとも若者?

 このところ、頭の半分はベトナムのこと、残り半分は仕事が憂鬱、でも定年延長なのかあ、世間は人手不足だというのになあ、などと思い悩んでいるわけです。その2つが交錯して、あれこれ思いにふける、ということもあるのですね。

 

 ベトナムに行って若い人が多いな、とは思いましたが、それでも昔のような子だくさんではありません。また、円安や日本の国力衰退で、これからベトナム人技能実習(制度が変わるそうですが)が減ってくる可能性が高いです。実際、一昔前は中国人の実習生が多かったのですが、中国も豊かになり、一方では少子化、そうしてベトナム人に代替されていきました。

 

 ベトナムなどの東南アジアからの労働力が来なくなると、今度は南アジアのバングラデシュあたりからの労働力を当てにするしかないでしょう。外国人労働者を早めに囲っておかないと、日本に来なくなる可能性があります。

 

 ですが、バングラデシュ人はイスラム教徒ですし、ベトナム以上に文化摩擦があるでしょうね。すでに埼玉あたりではクルド人コミュニティーをめぐって文化摩擦が発生しています。

 

 ところで、先日、労働力不足に関して、Fラン大学や専門学校、ひいては定員割れの高校がありすぎなので、これらをなくしたら若年労働力を確保できるのでは、という論考を見かけました。確かに、一理あるなあ、とは思いますね。

 

 もしかしたら、というより、確実にそうであるようにも思うのですが、今の日本は必要でない教育を必要でない層にまで押しつけている「過剰教育」の状態に陥っているのではないか、と感じることがあります。「教えたい人」、そしてそれで食っていきたい人が多くて、「教わる人」不足に陥っている、そして、その内容は皆に必ずしも必要なものではない、という気がするのです。特に近頃の若い人は「過剰教育」を押しつけられて学びたくないのに無理矢理学ばされ、ある意味、搾取されているような気がしないでもありません。

 

 外国人の労働力に頼ることに関しては、一方で保守主義的反移民論、一方で外国人の人権侵害が問題化する、という観点から、左右両翼ともに否定的であるようです。しかし、経済や社会の現況から、なし崩し的に外国人労働力に頼るようになってきた側面があるのですね。モノは輸入できますが、肉体労働的なサービスは基本できませんから、外国人に頼らない、あるいは頼れないとすると、やはり若者と老人しかないと思います。

 

 女性の労働力化をさらに進めるという議論もありいますが、そのひずみはもう出ているように思いますし、これ以上無理はしない方がいいでしょう。

 

 出生率が上がらないのなら、大学進学率を減らし、「過剰教育」をやめて若年労働力を確保するか、あるいは老年者の労働力化を図るしかありません。高齢者を引っ張り出してこざるを得ないわけです。でも私自身のことを考えても、そういうのは嫌だなあ、と思ってしまうのです。

 

 皆さんはベトナム人、というか外国人、が来なくなったら、どうやって労働力をまかなえばいいと思いますか?

53  65歳、あるいは70歳まで働くことになるのかな…

   しばらく前ですが、92歳だかの元厚生事務次官のインタビューがネットで載っていてそれを読みました。まだ現役で何かの団体の役員をしているらしいですが、年金政策の中心的人物だったらしく、年金制度が子供のようで心配だが、これからは70歳まで働いて70歳年金支給にしないともたない、ということをいっていました。

 

 これに対して、天下りを繰り返していまだに稼いでいるくせに、という突っ込みのコメントがありました。まあマクロで見ると元次官氏の言うことが正しいのでしょうし、この人は健康でうまくやっているのでしょうが、私なんかこんな記事を読むとため息が出ますね。

 

 毎日街を歩いていると、日本も高齢化で、このところ明らかに高齢者が多いな、と思います。

 

 ところが妙に元気な人が多く、私は参加したことも実地に見たこともありませんが、マラソン大会や冬場の歩くスキー大会など、50~60代の参加者が相当多い、という話を聞きます。また、白髪のじいさんが町中をランニングしている風景もよく見かけます。

 

 こういう人が増えているので定年延長、さらに70歳まで働け、というご時世になるのでしょう。私より10歳ぐらい上の人たちは、60歳で定年退職して、金銭的余裕のある人は退職して悠々自適、スポーツしている人も結構いるようです。働きたい人も多いのか、65歳までの雇用継続の制度ができたので、給料は下がるようですが、依然として元気に働いている人もこれまた多いようですね。元気な老人が多いので、働かせても大丈夫、と思われているのでしょうが、私としては困ります

 

 そういうことで、私の年齢になると、定年退職が5歳延長され、全員65歳になります。そして年金支給も65歳からになるわけです。基本的に65歳まで働け、ということになるのですね。

 

 でも、この年齢になると個人差が大きくなります。私など、もう50代半ばでへたっています。体力もない方ですし、それ以上にメンタル的に65歳まで仕事を続ける気力がありません。今ですら毎日やめたい、と思いながらやっとこさ職場に行っているのですから。

 

 若いときから仕事がうまくいかなかったので、できれば50代で早期退職、そういう踏ん切りがつかなくても60歳で定年退職、それがゴール、と考えていました。そして元気なうちに旅行でもしたいな、と考えていました。ところがゴールを5年間も先延ばしにされた気分ですね。

 

 今でも仕事の方はダメダメで、60歳どころか50代のうちに早期退職せざるを得ないかな、と思っていますが、同時になかなか踏ん切りのつかない人でもあります。肩たたきでもあれば別ですが、そういうことがなければズルズルと、私のような役立たずでも65歳まで働くのかなあ、でもどう考えてもきつそうだしなあ、と思います。

 

 そしてさらに、別のところで70歳まで働くことになるのか、ちょっと考えられませんが、一方で人手不足だともいいます。まあ私は人手不足の業界に転職して勤まるとも思えないのですが、それでも働いた方がいいのでしょうかね?

51  クルマ社会を考える

    先日、昨日の記事にも出てきた、私の数少ない知人氏が、車検の費用がかかる、車検など自己責任でいいのではないか、という話をしてきました。

 

 私は車に乗っていないので、車検の是非はわかりません。でも、たまに乗せてもらうだけ、あるいは歩行者の立場からすれば、安全に越したことはないので車検制度に反対ではありません

 

 車に乗ることには自動車の購入代はもちろん、税金やガソリン代、それに今回話題に出た車検、その他私は乗ってないので見当がつきませんが、結構な費用がかかるものなのでしょう。そう考えると車に乗ることは、ある意味、結構な贅沢だと思います。

 

 ところが乗りたい人が乗る、という嗜好品的性格のものであればいいのですが、現代の特に地方社会、多分首都圏と京阪神周辺以外では、必需品に近いものがあるようです。

 

 今春、地方都市への転勤話があったとき思いましたが、北海道の場合、地方都市は中心街の空洞化が進み、車嫌いの私でもいよいよ観念せざるを得ないか、と中年後期になって車に乗ることを検討したものでした。転勤は沙汰止みになり、車に乗らずに済みましたが、来年あるかもしれませんので、そのときどうしたものかと思わざるを得ません。

 

 そのとき思いましたが、高齢化でもあり、車がなくても徒歩や公共交通機関で普通に生活できる町作りをしてほしいものだと思います。高齢者や適性のない人が無理に乗っているケースも結構あるようですし。 

 

 私が乗るとしたら、費用面、安全面とも相当な覚悟が必要です。脱クルマ社会、という動きは起きないものでしょうかね?

50  現代日本の資本主義って「労働者」と「消費者」の対立になっていると思いませんか?

 このところ、旅行記の合間に4日ほど雑記を挟んで旅行記に戻る、ということを繰り返していたのですが、旅行記の引き延ばしのため、ネタがあるときにはもうしばらく雑記ネタを続けようと思います。

 

 昨日も登場した、数少ない知人氏とのやりとりの件ですが、ベトナムの話をする中で、この国が社会主義国であるせいか、あるいは、昨日の「プロ意識」をめぐる論議から発展してか、「資本主義」のあり方に話が広がってしまいました。

 

 知人氏はリベラル派で、資本主義に批判的な立場であるようです。資本主義を資本家と労働者の対立、という古典的な見方で捉え、「労働者側の利益を尊重する仕組みに賛成したい」ということでした。

 

 ですが、実は私はそうは見ていないのです。19世紀のマルクスの時代と21世紀の現代はさすがに違うでしょう。現代は所有と経営の分離が進み、実在の人格としての「資本家」というのは相当少なくなっています。

 

 「資本家」に見える者は、「消費者」の要求に極力応えて利益を増大させようという「専門経営者」です。ですからその背後には「消費者」がいて、ときには同一人格である消費者が労働者を苦しめる、という構図になっているように思うのです。

 

 現代日本の資本主義というのは、労働者と消費者のバランスが極端に消費者寄りになっているところに問題点があると考えます。

 

 消費者の過度な便宜を求める気持ちに企業が応えようとして、特にサービス業でのブラック労働化が進んできたように思うのです。「カスハラ」なんてのもそういうところから出てきた問題なのかもしれませんね。

 

 ただ、「カスハラ」が問題化し、一方で「働き方改革」などといわれるようになって、少し見直しが始まっている段階だとは思います。

 

 今の時代は、一昔前の資本対労働、という図式では現代の問題を説明できなくなっていると思います。もう1970年代にはそうした図式は成り立たなくなっていて、そこを理解できなかった労働運動が人々の支持を得られず衰退していったのです。

 

 当時の国鉄ストなどを想起すればわかると思いますが、国鉄ストに怒りの矛先を向けたのは、まず自分たちも労働者である利用者=消費者でした。彼らは労働運動に連帯の姿勢を見せなかったのですね。

 

 このあたりから消費者と労働者の利益相反というのか適切かわかりませんが、これが目立ってきて、現代に至っていると思います。

 

 私は消費者でもあり、労働者でもあるので、できるだけ働く人に優しくしたいな、と思います。

 

 今日の記事、自分でもあまりまとまってないな、と思う論考で、うまく伝わったか心許ないのですが、皆さんはどう思われますか?