連載しているベトナム旅行記、私の数少ない知人氏にも見てもらっているのですが、地図が読めないタクシー運転手の話になったとき、知人氏は「プロとして能力不足」とか「不可」という言葉を使ってきました。
でも、当事者である私としては、そんなに立腹したわけではなく、むしろ、見方を変えればベトナムやタイではこれでタクシーの運転手が務まるのだなあ、と思ったわけなのでした。急ぎの用事があったわけでもなく、むしろ一種の国情の違いを感じて面白がった、というか、そのときはかなり困ったのですが、後で考えるといい思い出になった、とさえ思えるのです。
日本は何かにつけて求める水準が高すぎるのかもしれません。私は自分が失敗が多くて叱られたり、自責の念に苛まれてメンタル的にやられたりするので、車が運転できさえすれば地図が読めなくてもOK、というユルさが働く側としては案外いいのかな、と思ったりもします。
そういう日本でも、タクシー運転手不足で、これまであった「地理試験」がなくなるそうです。いずれベトナムやタイのタクシー運転手の水準は上がるでしょうけど、その代わり日本では老人のあやしい運転手ばかりで、地理もわからない、という人が増えるかもしれませんね。
知人氏はきっちりした人で、自分にも他人にも厳しく、「プロ意識」が強いのだろうな、と思います。一方、私は、自分にも他人にも「プロ」という言葉を使ったことがないと思います。もっといえば、私は「プロ」という言葉が嫌いです。私が子供の頃は「プロ」という言葉は「プロ野球」ぐらいしか使われなかったように思いますが、その後、いろんな業界で「プロ」とか「プロ意識」などと言うようになりました。でも、そういう働き方の意識が、息苦しい企業社会を作っているようにも思うのです。
「プロ」であるべきだと思うのは、パイロットや手術をする医者のように失敗が許されない職業だけであるべきで、それ以外はもっとユルくてもいいのでは、と思うのです。そしてそうしないとこれからはやっていけなくなるでしょう。
私が甘ちゃんなのかもしれませんが、皆さんは「プロ」という言葉について、どう思いますか?