写真のない旅行記

カメラを持たずに旅した記録です。雑記も載せています。

18 4日目午後 旧泰緬鉄道復路<その1>(2020年1月10日)

 ナムトク駅に着きました。遅れてついたのですが、折り返しの列車が12:55発ですから10数分しかありません。それでも一応下車します。この奥に滝があるそうで、それを見に行く観光客を当てにしてタクシーやトゥクトゥクがいます。客引きされますが、この列車で戻るので乗りません。カメラがないので、絵はがきを1枚、10バーツで買います。セットなのかと思って袋ごと持って行ったら、同じ絵はがきだったようで、一枚だけ渡されました。

 同じ線路を戻ります。タイの鉄道はバンコクを中心に放射状に延びています。ですから、鉄道名所が4つあると最初に書きましたが、それぞれのところに行くにはそれぞれの線を往復しないといけません。台湾のように一周するとだいたいの区間を乗ることができる、というのに比べると効率が悪いです。ですからタイの鉄道旅行を楽しむには、長期間滞在するか、何度も訪れなければなりません。

 帰りは車両を変えようと思います。行きは緑のビニールシートが貼ってある車両でしたが、今度は木製ベンチの車両に乗ります。黄色で塗ってあります。ナムトク12:55発。アルヒル桟道あたりまでは、行きと同じ峡谷側の窓際に座ります。

 

 またそのあたりで客が乗って混んできます。木製桟道を行きと同じようにそろりそろりと過ぎていきます。車内の皆さんはまた写真や動画を撮っています。外にもカメラを持って列車を撮っている人たちが多数いました。やはりスリルがあるのは行きと変わりません。確か向こう岸にある木製の広いテラスからタイ人らしき女の子が手を振ってきました。

 木製桟道を過ぎたので、行きと反対方向の崖側の席に移ります。帰りは反対の窓から景色を見ようというわけです。ところがところが、これがいよいよ苦痛になってきました。反対側とはいえ、景色はそう変わるわけではなく、サトウキビや謎の白くてひょろひょろした木の畑。単調です。

 

 それに初めは面白がって乗った旧型の木製ベンチ車両ですが、やはりこれでは足腰が痛くなります。だんだん耐えがたくなってきました。おまけに焼畑なのか野焼きなのかわかりませんが、原野と思われるところを焼いていて、窓ガラスがありませんので、その煤が目に入ってきます。洗面所もありません。熱帯の太陽がじりじり、暑くてたまりません。手も黒ずんできて、目をこするわけにもいきません。ホテルに残したバッグにウェットティッシュがあったのですが、これを持ってくればよかった、しまった、と思います。

 さらに昼食を食べていません。行きは頻繁に車内販売の人たちが往来していましたので、食べるものぐらいすぐ買えるだろう、と思っていたのですが、帰りは一向に車販が来ません。

 

 一人だけジュース類を氷水を入れたバケツに入れて往来している、おじさんがいたのですが、タイ人の修学旅行生なのか、なんかの学生団体が別の車両に乗っていて、その団体に水かジュースを渡す仕事があるのか、そっちの方に行ったまま戻ってきません。ということでずいぶんヘビーな状態に陥ってしまいました。

 

 やっとこちらの車両におじさんがやってきたのですが、ファンタぐらいしかめぼしいものがありません。とりあえず20バーツで買います。容器についている水滴で手を拭きます。そうするしかありません。

 クワイ川鉄橋にさしかかります。相変わらず観光客多し。途中の待避所にはピンクのシャツを着たタイ人学生とおぼしき生徒が、いっぱいぎゅうぎゅう詰めの状態で列車を待避しています。鉄橋を渡ってしばらく行ったところに日本から持ち込まれたのであろう、C56が保存してありました。

 出発から2時間ぐらいしたところで、足腰の痛みはつのり、木製ベンチに耐えられなくなってしまいました、隣の車両に移ります。こちらもボロとはいえ、木製ベンチの車両よりはマシなようです。覗いたときには、日本の12系かなんかのお古なのか、と思いましたが、行ってみると、どうもそういう様子ではありません。今度はビニールシートは青でした。車端に仕切りもない洗面所がありましたが、片方の洗面台からは水が出ず、もう片方はシンクに水がたまったままです。ということでまた手が洗えません

 この車両は進行方向左側に空いているいい席がなく、結局行きと同じ進行方向右側の窓側になります。やはり木製ベンチ車両より乗車率がいいようです。ですが腰痛は治ったわけではなく、1月といっても熱帯の真っ昼間、快晴なのはいいですが、むちゃくちゃ暑いです。窓は開いていますが、というよりガラスがはまっていないのですが、昼の2時3時ですので熱風とまではいいませんが、ちっとも涼しい風は入ってきませんでした。

 

 もう耐えがたく、ひたすら我慢。やっぱり冷房つきのツアーバスで行くものなのかなあ、と思いますが、それでは鉄オタの名折れです。意味不明のプライドで頑張ります。ですが帰ってからYシャツを脱いだら、これまで見たこともないくらい襟が真っ黒になっていました。帰国してから漂白剤につけて丁寧に洗ってもしっかり落ちませんでした。それぐらい汗ダク、かつ汚れていたということになります。手も汚れています。

 往路でも感じましたが、ただ酔狂で列車に乗っているだけでもこれだけきついのに、こんなところまで戦争しに行った旧日本軍、というのは何を考えていたのだろうと思わざるを得ません。よく生きて帰れた人がそれでも結構いたもんだ、と思います。昔の人は生命力が強いのですかね。暑くてきつくて退屈なので、そんなことを考えてしまいます。