前回は幼稚園の頃の「雷鳥」とそれに乗っていった大阪のかすかな思い出を書きました。今度も幼児期のかすかな記憶の話。長野に行ったときのかすかな記憶をまとめておきます。
大阪には父方の祖父母がいたのですが、当時長野に母方の伯父がいました。我が家もよく転居しましたが、この伯父もよく転勤する仕事に就いていました。
この伯父のところへ母方の祖母と行ったことがあります。1972年の春ぐらいのことだったのでは、と思います。当時新設されたばかりの「白山」という特急に乗っていきました。
その前に伯父を昼間の金沢駅から見送った覚えがありました。このとき伯父は旧型客車に乗っていた、という記憶があります。ということは特急昇格前の客車急行「白山」であった可能性が強いです。となると1971年の夏あたりの記憶のようで、それならまだ2歳です。そんなこと覚えているだろうか、と思います。
でも、1973年に死去した母方の祖父がどこからか、多分1972年版か73年版の「西日本の特急です」というよく電車の壁に掲示してあったポスターを入手し、家に貼ってあったのを見て特急の名前をほとんど覚えてしまったことも覚えています。当時3歳か4歳ですね。「白鳥」が電車化された直後のものだった記憶があり、白鳥はディーゼルだと思っていた私は「えっ」って思った覚えがあります。
祖父に金沢駅まで連れて行ってもらい、電車を見たことを覚えています。これも祖父の死から考えると3歳ぐらいの記憶です。このとき、営業運転ではなく、他の機関車に牽かれていた蒸気機関車を見た覚えがあります。七尾線あたりで使われていたものが廃車回送されたのでしょう。私が見た、保存運転以外の唯一の蒸気機関車の記憶です。
それはさておき、母方の祖母と2人、電車特急「白山」で、長野に行きました。沿線風景は全然覚えていません。「直江津」という駅があったのを覚えているだけです。
どうも伯父の社宅は長野郊外の「三才」という駅の付近にあったようです。当時自分が三歳だったのでよく覚えています。ここから見慣れない青色の直流電気機関車に牽かれた旧型客車に乗って長野にいった記憶があります。
善光寺に行ったらしいのですが、覚えていません。ただ、どうもそこの門前のそば屋でそばを食べたところ大変気に入り、ほとんど全部食べたらしい、それでこの子はそばが好きなのか、と思われて翌日もデパートか駅の食堂でそばを食べたらこんどはおいしくなかった、という記憶があり、祖母もそのようなことをいっていました。子供のくせに口が肥えていたようです。幼児の頃からそば好きでした。
あと、あまりいい話ではないのですが、帰りの「白山」で吐いてしまった記憶があります。この頃はよく列車内で吐いていた、という記憶があります。
その後その伯父は転勤になり、長野に行く機会はなくなりました。再度長野に行ったのは高校の時になります。