写真のない旅行記

カメラを持たずに旅した記録です。雑記も載せています。

05 幼児期の新幹線「こだま」と東急・東京の記憶

 「幼児期の記憶」シリーズですが、1974年と75年のどちらも春、ついに東京に行くことになりました。長野に住んでいた伯父が東京転勤となり、また母方の祖母が行くのについていったのでしょう。どちらかは母親といったのかも知れませんが、結局、誰と一緒に行ったのかを覚えていません。家族より、電車の記憶ばかり残っているからでしょう。2度行ったはずですが、2度の記憶が混ざり合っていて、どちらが74年でどちらが75年なのかまでは覚えていません。

 

 今思えば一度ぐらいは上越線経由の「はくたか」か、信越線経由の「白山」に乗れればよかったのですが、伯父の社宅が横浜市内で、新幹線経由でした。一度目は米原まで何に乗ったのか覚えていません。もしかしたら急行「くずりゅう」だったのかな、と思うのですが、覚えがありません。2度目は間違いなく新幹線博多開業に合わせて新設された特急「加越」でした。米原からは新幹線「こだま」で新横浜まで行きました。米原~新横浜間だったので「こだま」にしたのでしょうが、「ひかり」に乗れなくて残念でした。名古屋の前後のどこかで高架線を通っているシーンが記憶に残っています。富士山が見えたとか見えなかったとか言っていた記憶もありますが、そのとき見えたのか見えなかったのか、ということも覚えていません。

 

 新横浜から横浜線長津田まで、当時の横浜線はまだ茶色の旧型国電で、数駅ぐらいの短距離だったと思いますが、旧型国電初乗り。長津田で乗り換え、それから東急田園都市線で、丸っこい「青ガエル」こと5000系藤が丘、というところまで行きました。当時子供向けの電車図鑑では東急はステンレスカーのみが紹介されていたので、「こんな電車があるのか!」と、この5000系との出会いのインパクトが大変強かったのを覚えています。

 

 東京(というか横浜ですが)は大阪や名古屋と同様、テレビのチャンネルが多く、CMも垢抜けていました。「味なことやるマクドナルド」というCMは当時、居住地だった金沢はもちろん、大阪でも名古屋でも見たことがなく、よく覚えています。

 

 その後、東急田園都市線に乗って東京に行き、上野動物園のパンダや東京タワーを見ました。上野駅から歩くと「上野公園」にでて、「動物園じゃないじゃないか?」と思いつつ、さらに歩くとようやく動物園にたどり着いた、という記憶があります。パンダは寝ていたように思います。このとき、上野動物園懸垂式モノレールにも乗りました。当時、神田にあった交通博物館にも行きました。「東海道五十三次」の浮世絵セットと、「新しい日本の鉄道」という本を買ってもらった記憶があります。

 

 75年に行ったときには統一地方選挙があり、美濃部都知事選挙カーが「みのべ・みのべ」といっていました。ちょうど小学校入学の時で、買ってもらったランドセルに「東京都知事賞」と書いてあり、小学一年生のくせに美濃部都知事になんとなく親しみを持っていました。

 

 私は電車に興味がありますから、東急の電車は緑色の箱形と銀色の箱形、それに緑の丸っこくて非貫通型の青ガエル5000系と、そして途中の多分鷺沼のところに留置されている5000系をステンレス化した5200系が一瞬見えて、東急は4種類の電車があるのだな、と気づきました。この5200系は鷺沼を通るたび見えるのですが、ついに乗車機会がありませんでした。「たまプラーザ」などという駅名も田舎の幼児には新鮮で、よく覚えています。あと、東急の旧型車は貫通幌がやたら長かった、という記憶があります。

 

 当時の田園都市線は渋谷に向かうのではなく、大井町に行っていました。ですから私にはいまだに「田園都市線大井町行き」というイメージがあります。ここで京浜東北線の青い電車に乗り換えて、都心の観光地に行ったのですが、緑の山手線に乗りたかったという記憶があります。一回ぐらいは乗れたのかも知れません。

 

 品川~大井町間で一瞬だけ京浜急行赤い電車が並走し、これまた強烈なインパクトが残りました。京浜急行初乗りはずっと後ですから、小学生の頃はその一瞬の印象だけが脳裏をかすめていました。

 

 あと、長津田から少し行ったところに、「こどもの国」があり、連れて行ってもらったはずです。もちろん、園内よりも、電車の印象が強く、長津田こどもの国線に乗り換えて行きました。旧型電車をきれいに色分けして走らせていた覚えがありますが、何よりもいちばんよく覚えているのは、帰りの電車が踏切でトラックと衝突したという事故に遭遇したということです。列車事故初遭遇でした。新聞記事の切り抜きと写真もあったはずです。トラックの運転手が死亡した、ということも覚えています。

 

 帰りは東京駅から「こだま」に乗ったようです。2回目も行きは新横浜で降りた気がしますが、東京駅だったかも知れません。2度目に横浜線に乗ったのか乗ってないのかも記憶がありませんが、長津田駅で見る横浜線の電車は、今度は101系あたりの緑色・青色の混結で、旧型国電ではなく、がっかりしたような覚えもあります。

 

 帰りは米原で降りて、大混雑の急行「くずりゅう」で長時間座れず、ひどい思いをして金沢へ帰ったような記憶があります。

 

 この伯父はこのあと九州に転勤、さすがに九州には行くことはできずじまいでした。そのため東京をその次に訪れたのは高校時代になります。

 

 書いてみて2回行った記憶がこんがらがっていて、気になりました。でも今更、どちらが1度目で、どちらが2度目か、ということを突き止めるのは難しいでしょう。

 

 こうしてみると、幼児の段階で大阪・長野・名古屋・東京と、あちこち行っていました。このシリーズ、とりあえずこれでおしまいにして、いつか機会があったら今度は小中学校時代の電車の記憶を書いてみたいと思います。