写真のない旅行記

カメラを持たずに旅した記録です。雑記も載せています。

04  幼児期の特急「しらさぎ」と名古屋の記憶

 ここ2回ほど、幼児期のかすかな記憶をつなぎ合わせて、忘れないように記録にとどめておこう、と思い、「雷鳥」「白山」の記憶を書いてきました。今日はしらさぎ」と名古屋の記憶です。

 

 当時母方の伯母が名古屋在住で、そこにまた母方の祖母に2回ほど連れられて行った記憶があります。1972年と73年ではないかと思うのですが、多分夏です。

 

 金沢から名古屋に行くためには特急しらさぎに乗ることになります。2回とも、朝の6時か7時の「しらさぎ」に乗った記憶があります。「雷鳥」も「しらさぎ」も同じ電車なのですが、列車名が違うと違う電車に乗るような気がしました。方向幕も雷鳥は「富山→大阪」となっていたのに、なぜか「しらさぎ」は単に「名古屋」と書いてあった記憶があります。

 

 朝の金沢駅にはボンネットの電車特急「しらさぎ」が1番線、その脇の行き止まり式の0番線に高山線回りのキハ82系特急「ひだ」が停車していました。この番線は能登半島に行く列車用だったのですが、なぜか「ひだ」はこの番線から発車していました。

 

 名古屋に行くのですから「ひだ」でも行けたはずですが、いくら私が鉄オタでも、違う列車に乗せてやろうとまでは気が回らず、「しらさぎ」しか乗れなかったのでしょう。金沢から名古屋に行くときは「しらさぎ」に乗るのが常識的な選択でした。まだ真新しいボンネット特急の先頭車は迫力がありました。

 

 乗ってしまえば「雷鳥」も「しらさぎ」も同じようなものですが、「しらさぎ」の場合、米原で方向転換します。「雷鳥」は座席転換はなく、新鮮な経験でした。座席転換があるせいか、当時の「雷鳥」には背もたれに折りたたみ式のテーブルがついていたのに対し、「しらさぎ」にはそれがなく、網状の物入れがあっただけ、という記憶があります。記憶違いかも知れません。

 

 当時伯母は名古屋郊外の「西春」というところの団地に住んでいました。ここで「みたらし団子」を初めて食べて気に入ったこと、大阪もそうでしたが、名古屋の水が白くてまずかったこと、などを覚えています。

 

 西春は名鉄沿線です。ここから当時の新名古屋まで名鉄電車に何度か乗った記憶があります。ところがこの駅は特急通過駅でパノラマカーが高速で通過します。これに怖じ気づいて、パノラマカーが通過するときは背を向けてホームの反対向きのベンチに座っていた、という覚えがあります。当時から怖がりでした。

 

 当時の名鉄は、パノラマカー以外は赤い電車ではなかった気がします。白い電車で線が入った準急ではなかったでしょうか?それに乗って地下線に入ったことは覚えていますが、当時の新名古屋駅の様子は覚えていません。

 

 どうも東山動物園に行ったらしく、名古屋の地下鉄にも乗りました。大阪の地下鉄で「地下鉄というものは銀色なのだ」と思っていたのに、黄色い電車が来て、不思議に思ったことだけは記憶に残っています。目的地の動物園の記憶がないのに、地下鉄に乗ったことだけ覚えています。やはり鉄オタだからでしょうか。

 

 名古屋の記憶は大阪以上に混沌とした不思議な記憶です。というのは、大阪は小学生になってからも何度も行きましたが、名古屋は伯母が転居したため、幼児期の2度だけ。かすかな記憶が入り交じって大阪以上に「不思議な世界」というイメージを持っていました。

 

 たとえば、名古屋で、外が見える「シースルーエレベーター」にはじめて乗った記憶があります。そこを出ると金魚や熱帯魚の売り場だったのだろうと思うのですが、子供の頃は「エレベーターの中が熱帯魚売り場になっている」という記憶として印象に残っていました。今思えば、そんなことはないはずなのに。田舎の幼児が大都会に幻惑されて、混乱した記憶が間違った形で再構成されてしまったのでしょう。

 

 帰りの「しらさぎ」は、尾張一宮、岐阜、大垣と停まっていったことを覚えています。1度目か2度目か、このときも帰りで乗り物酔いになり、吐いたような気がします。名古屋でもどこかで迷子になった覚えもあり、変なことを覚えているくせに、よく迷子になり、よく吐く子でした。