写真のない旅行記

カメラを持たずに旅した記録です。雑記も載せています。

11  夏休みに岡山・山口から金沢へ行った思い出

    小学2年生の夏、金沢から岡山に転居しました。親の転勤だったせいか、多分生まれて初めてグリーン車に乗って京都まで行きました。京都からの新幹線は普通車でしたが。

 

 「岡山プラザホテル」というホテルに泊まったのを覚えています。朝食のレストランから路面電車が見えたのをよく覚えています。金沢にも当時も既に路面電車はなく、それ以前に今日で乗ったことはありますが、自分の住むことになる町に路面電車が走っていることが面白く、その後、路面電車に乗せてもらいました。

 

 翌年からは夏休み、祖母のいる金沢に「帰省」することになりました。20日間程度滞在していたと思います。毎年、最初は母親と一緒に、その後は伯母と行った年があったように記憶しています。また、自分で行った年もありました。鉄オタなので大丈夫と思われたのでしょう。

 

 うちの母親は岡山から新幹線で北陸線に乗り換えるとき、京都乗り換えにこだわっていました。誰か(多分親戚)から京都の方が乗り換えがわかりやすい、と吹き込まれたようでした。あるとき私が新大阪で乗り換えた方が安いことに気づき、新大阪乗り換えを勧めてもかたくなに京都乗り換えをやめませんでした。在来線の景色が見たいな、と思っていたのですが。

 

 いつも雷鳥で行くのですが、京都で雷鳥に乗り換えると、いつも聞く岡山方言と違う、北陸の方言が聞こえてきます。これが新鮮でした。これがきっかけで方言に興味を持ったのだろうと思います。

 

 ある時期から母親が帰省するより前に行くようになったので、今思えば体のいい厄介払いだったわけですが、私は年に一回の鉄道旅行ですから、楽しみでした。

 

 伯母と行ったときはいつもの「雷鳥」ではなく、当時大阪~新潟間を走っていた北越でした。同じ485系の列車ですが、なんだか嬉しかったものです。いつだったか、多分「北越」に乗った次の年だったのだろうと思いますが、青森行きの「白鳥」に乗りたい、とせがんだことがあったように思います。でもダメでした。そのため「白鳥」にいつか乗りたい、という、思い入れができることになりました。

 

 当時のデッドセクションだった近江塩津で一度電気が消えます。敦賀の手前で行きと帰りのルートが違い、変だなあ、と思っていました。当時上りがループ線になっていることを知らず、カーブして下り線を乗り越えてトンネルに入り、そこを抜けると一瞬景色が不自然になるのは認識していましたが、ループ線の途中にあるから、と気づいたのはだいぶ後でした。

 

 旅行というものはだいたい行きの記憶が強いものですが、このループ線周辺の線形が不自然で、帰りの方に強い印象があります。近江塩津を過ぎて湖西線に入るとき、電気が消えるのも、帰りの方の印象が強いです。

 

 その後、山口に引っ越しましましたが、相変わらず夏に金沢に行き続けました。出発点が当時の小郡駅新山口)になっただけでしたが、山陽新幹線に乗る時間が長くなります。最初こそ、当時陸上トンネル最長の六甲トンネルや新神戸駅を挟んだ神戸トンネルを面白がっていたものの、山口に住む頃にはトンネルだらけで退屈山陽新幹線に嫌気がさしていました。

 

 以前書いたクイズ番組に出た小六のときを除き、中1まで毎年金沢に行ったはずですが、その頃になると山陽新幹線に乗るのが嫌になり、中2の時からは自分でルートをこしらえ、遠回りしていくようになります。