写真のない旅行記

カメラを持たずに旅した記録です。雑記も載せています。

12  子供の頃の北九州の思い出

  小学校5年生の秋、山口県宇部、というところに転校しました。小学校は高台にあったので、空気が澄んでいる日は目を凝らすと九州が見えました。また、テレビも福岡県の放送が映り、新聞も北九州から運ばれてくるものでした。山口県の西部は福岡県の影響が強いのです。ということで福岡県の情報に接する機会が多くなり、テレビのCMも福岡で流れているものがおなじみになりました。

 

 今は違うと思いますが、VHFの2・4・6・8・10・12のうち、4チャンネルだけが山口放送で、あとは北九州の局、UHFの14・16・18・20チャンネルが山口県の県域放送で、福岡・山口両県のテレビを見ることが可能でした。ただ、うちのある地域は低地だったので35チャンネルの福岡放送だけが入らず、高台の家の子はこれも入るのでうらやましかったものです。

 

 さらに大分の放送が入るといっていた家庭もあり、小堺一機のやっていた「いただきます」という番組が1時から福岡、1時半から山口、2時から大分の放送で見られる、ということでした。3回見ても仕方なかったのでしょうが、うらやましかったものです。   

 

 それはさておき、5年生の秋の遠足は北九州でした。朝早くバスに乗って、下関から高速に乗り、関門橋を渡って九州初上陸でした。このとき本当は関門トンネル通過の予定だったのですが、工事中で関門橋経由に変更されたという覚えがあります。

 

 そして国鉄の小倉工場見学、電車がいろいろいました。鉄オタですから楽しみにしていたはずですが、九州だけあって交直両用型の電車や特急電車がいたという記憶はあるものの、団体見学ですから思うように動けるわけでもなく、さほど強い印象は残っていません。

 

 そのあと若戸大橋も渡ったことを覚えています。関門橋は白く塗られていて、若戸大橋は赤く塗られていますから、その違いが鮮明に印象に残っています。

 

 家族でも小倉まで行ったことがありました。宇部はさほど大きな都市ではありませんから、100万都市の北九州市は立派に見えました。当時はまだ市電が走っていて、門司から小倉まで電車の線路が道路にありました。ときどき電車が来るので、乗りたいなあ、と思いましたが、家族旅行は車でしたので、乗れませんでした。中学生になってから乗りに行くことになります。

 

 小倉駅前通りの交差点を境に、国道3号線駅前通りを境に大きな道路なのになぜか一方通行になり、運転していた父親が戸惑ったことを覚えています。仕方なく左折したらこれまた当時まだ走っていた、モノレール建設のため先行廃止された西鉄北方線路面電車が見えました。

 

 そのあとも何度か家族で行ったのですが、実は父方の祖父が子供の頃小倉に住んでいたそうで、祖父を連れて行ったことがあります。1982年の正月明けで、このとき車で行ったのか、電車で行ったのかは覚えていませんが、小倉城と八坂神社に行ったことは覚えています。もう40年近く昔の話で、さらに祖父が子供の時、というと大正か昭和初期ですから、100年近く昔の話になります。そのころはどうだったのでしょうね?

 

 このときは父方の祖父母と一緒に行ったのですが、両親の印象がありません。小倉に着いてから祖父母と私、そして父親は別行動したのかも知れません、また、祖父母と電車に乗った記憶がないので、車で行った気もするのですが、小倉駅に行ったのは間違いありません。というのは、小倉駅で、前を歩いていた担ぎ屋のおじさんがコインを落とし、拾ったら韓国の50ウォン硬貨でした。この頃から韓国に興味を持ち始めていて、韓国のお金、というか、外国のコインを見たのは初めてだったので、自分で拾って持って帰ってしまいました。このお金、今でも持っているはずです。もっとも、大人になってから韓国に何度も行ったので、そのとき持ち帰ったコインに紛れてしまったかもしれませんが。でも、北九州って韓国に近いのだな、と思ったものでした。