写真のない旅行記

カメラを持たずに旅した記録です。雑記も載せています。

28  先駆者としての弘田三枝子<その2>「人形の家」

 前回から、弘田三枝子氏の記事を書いています。ただ、私は彼女の全盛期を知らない世代です。ですから彼女の全盛期を知っている方からすれば、「それは違うよ」ということがあるかも知れません。そのような場合、是非お知らせください。では続きです。

 

 弘田三枝子氏と言えば、「ヴァケーション」をはじめとするカヴァーポップスで人気を得た人です。当時は森山加代子とか中尾ミエ伊東ゆかり、少し前であれば「テネシーワルツ」の江利チエミや「バナナボート」の浜村美智子など、洋盤に日本語詞をつけた曲がずいぶんヒットしていました。この手の歌を歌う歌手は概して歌がうまく、現在でも「実力派」として評価されている歌手が多くいます。

 

 ところが彼女、ぽっちゃりとした顔で、かわいい、という評価はあったようですが、「美人」とはいえないようでした。それで楽屋で辛い思いをしていた、という話をどこかで読んだことがあります。

 

 紅白では当落線上にあったことが多かったようで、1960年代前半と1970年代初めは連続出場しているのですが、1960年代後半、言い換えると昭和40年代前半は当選と落選を繰り返しています。

 

 その時期に整形し、ダイエットに成功、そしてまさにお人形さんのような「美女」になり、 「人形の家」という歌をひっさげて大ヒットさせたのが1969年です。この歌のタイトルと彼女の変貌ぶりがぴったり合ったのでしょう。

 

 そして「ミコのカロリーブック」という本を出してベストセラーにさせたそうです。この時期が彼女がいちばん輝いていた時期だったのでしょう。

 

 ですがそれは長続きせず、1972年には紅白も落選。以後は実力を評価されつつも、「懐メロ歌手」というくくりから逃れることができませんでした。

 

 ですが、美容整形やカロリー計算を日本に浸透させるのに大きく貢献した、といえるでしょう。昨日書いた「レオのうた」とはまた違った意味で先駆者だったのだろうと思います。

 

 先駆者というものは「出る杭は打たれる」という言葉があるように、バッシングされたり、誤解されたりするものです。後を追った方が先駆者の失敗を見てうまく立ち回ることができます。

 

 youtubeのコメントで誰かが「彼女は一瞬の輝きに賭けた」ということを書いていました。そして一瞬だったかも知れませんが、この賭けに勝ったのだと思います。

 

 「先駆者としての弘田三枝子という言葉を彼女に贈りたいと思います。

www.youtube.com

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