写真のない旅行記

カメラを持たずに旅した記録です。雑記も載せています。

59  八代亜紀さんの訃報

 もうしばらく前ですが八代亜紀さん、亡くなりましたね。年末の「年忘れにっぽんの歌」で、元気そうに歌っていたので、「紅白にも出ればいいのに」と書いていたら、これはかなり以前のVTRで、その時点ですでに亡くなっていました。

 

 訃報を知ったとき、実はベトナム旅行中でした。インターネットはつながるのでこの一報を知ったわけです。年末年始の番組感想を書いた記事を留守記事として載せておいたのですが、その中で「まだ歌唱力を維持しているので紅白にも出てほしい」と書いていたので、慌てて現地から追記を書いたのでした。

 

 追悼記事を見ると、いまだに女性演歌歌手の売り上げ第一位であるということでした。70年代中盤から後半にかけて出す曲出す曲が安定してヒットしていたような印象があります。その後も一発当てる歌手はいましたが、安定した売れ方をした最後の女性演歌歌手であったと思います。

 

 演歌の女王といわれて、レコード大賞も取ったし、最優秀歌唱賞も2年連続で取ったはずです。確かそのせいで一時期レコード大賞は最優秀歌唱賞の連続受賞を制限していた時期があったはずです。紅白でも何度もトリを取っていました。実績だけでなく、雰囲気や貫禄も含めて「演歌の女王」の称号がふさわしかったのでしょう。

 

 私が「演歌」という言葉を初めて知ったのは、この八代亜紀さんが紹介されているシーンだったように思います。「演歌」という歌のジャンルはその以前から存在し、これについてはいつか考察記事を載せてみたいと思っているのですが、それはともかく、私にとっては演歌=八代亜紀というイメージで、先駆者ではありませんが、大成者ではあると思います。

 

 演歌歌手の場合、故郷の地名を芸名にするケースが多いですが、意外と大成する人が少ないようです。その中でこの人は数少ない成功例ですね。

 

 「全日本歌謡選手権」という番組で10週連続勝ち抜き、デビューしたそうです。この番組、幼稚園から小学校低学年の頃までやっていたように思いますが、八代さんが出てきた覚えはありませんから、ごく初期の出演だったのでしょう。

 

 ファンはトラック運転手や漁船乗組員などが多かったといいます。港町の歌が多かったせいか、そういうファンが多そうだなあ、という感じでしたね。前時代の青江三奈が都会の風俗を歌っていたのに対し、その衣鉢を引き継ぎつつも、地方の雰囲気を漂わせた歌が多かったように思います。青江三奈の「艶歌」をベースに藤圭子の「怨歌」を融合させて「女性演歌」を大成した人、という評価ができるのではないでしょうか。

 

 それだけの実績がある人なのに、紅白から落ちるのは比較的早かったように思います。調べたら1988年に一度落選して、その後復活したものの、94年には再度落選しています。落選したときは「あれっ」と思ったものです。80年の「雨の慕情」でレコード大賞を取ったときが頂点で、ご本人もファンもそれで達成感があったのか、その後、あまりヒット曲が出なかった印象があります。それで紅白落選が比較的早かったのでしょうか?

 

 昨年もそうでしたが、こうして70年代、それも後半に活躍した方が亡くなっていきますね。70代なら夭折ではありませんが、それでも惜しいですね。もう一回紅白で見たかったです。