写真のない旅行記

カメラを持たずに旅した記録です。雑記も載せています。

02  五輪真弓「合鍵」

 数年前のことだったと思いますが、土曜日の昼に香港のラジオを聞いていました。古い歌をかけるチャンネルで、夜、中国風の戯曲をかけているのでたまに香港気分を味わうときに聴く局です。

 

 珍しく昼に聞いていると、歌謡曲の番組です。広東語の歌でいい歌だなあ、と思う曲がありました。多分古い歌ですが、広東語なので何という曲かわかりません。すると次に同じ歌が日本語で流れてきました。どうもさっきの曲は日本の昔の曲のカバーだったようです。ですが、まだ、何という曲かわかりません。70~80年代のものだろうとは思います。

 

 すると今度は英語で五輪真弓の「リバイバルという歌のカバーがかかってきました。(本人歌唱か?) これは、「恋人よ」の次に出てきた曲です。これは知っていたので、そこで五輪真弓の特集をしているのだ、とわかりました。その後何曲か、広東語のカバーや日本語の原曲がかかっていました。

 

 「合鍵」という題名ではないか、と調べてみると、やはり最初の曲は「合鍵」という曲で、youtube夜のヒットスタジオで歌っていたときの映像がありました。1979年の歌だったのですね。こういう展開で物事がわかるというのが面白いです。

 

 五輪真弓、という人は、ある意味、70年代から80年代にかけての日本と海外の関わり方の変化を象徴する歌手です。

 

 70年代はアメリカやフランスの香りのする歌手で、いかにも大学生あたりの感性が高い人たちが好みそうな、いい意味でのマイナーさやアンニュイさを感じさせる歌手でした。

 

 私がこの人を知ったのはテレビやラジオではなく、小学生の時、金沢の街を歩いていたら、当時「もっきりや」という喫茶店でたまにライブをやる店があって、当然私は子供なので入ることもなく、大人の世界を感じさせる店だったのですが、そこの窓か近くの電柱だったかにコンサートのチラシが貼ってあるのを見かけたことでした。「ごりんまゆみ」って変な名前だなあ、と思ったことを覚えています。そういう歌手の名前の知り方をしたのは珍しかったので、余計アングラ感やマイナーさを感じていたかもしれません。

 

 調べてみたら、アメリカでアルバムを録音してそれがヒットし、シングルよりアルバム先行の人気の出方をしたり、フランスでも活動していたりしていたそうです。フォークからニューミュージックへの移行期を主導した一人だったのでしょう。

 

 当時子供だったのでさほどファンというわけでもなかったのですが、中ヒットした「さよならだけは言わないで」は子供心に大人の世界へ背伸びした気分にさせてくれましたし、ある程度大きくなってから知った「煙草のけむり」・「少女」など、1970年代中盤のけだるい雰囲気の曲が気に入っていました。

 

 80年に「恋人よ」が大ヒットして紅白やレコード大賞に出て、一気にメジャーになりましたが、私はそれ以前の曲の方が好きで、「恋人よ」に関しては、そんなにいい曲かなあ、と思っていました。

 

 ここが日本での頂点で、以後大ヒットというほどの曲は出ず、日本では「一発屋」というイメージが出来てきました。ですが、「恋人よ」はアジアに流出して浸透し、香港などでは一発屋などではなく、依然として人気がある、という話も聞こえてきました。

 

 香港の人と文通していたとき、日本語の歌を訳してほしいと手紙に書かれていた歌は、私の知らない五輪真弓の歌でした。「恋人よ」のあとも紅白に何度か出ましたが、ヒットもないのにどうして、と思っていたら、香港やインドネシアで人気だから、という紹介がされていました。欧米の香りのする歌手がアジアへ。今度は日本歌謡のアジア流出の先導者になったのですね。

 

 全く内容がわからないのに、香港気分を味わいたくて、ネットで香港ラジオを聞いていると、今でもやはり五輪真弓が根強い人気があるようです。日本の曲を流す番組でいろんなアーティストが日本語で挨拶をするジングル的なものがあったのですが、真っ先に出てきたのが五輪真弓でした。日本でポールモーリアが根強い人気があったのと同じようなものでしょうか?こうして香港の懐メロ番組で特集をされているのを聞くと、感慨深いものがあります。

 

 「もっきりや」という喫茶店は、大人になってからもどうしても行ってみたくて、金沢に行ったとき一度だけ入ってアイスコーヒーを飲みました。その後なくなったようです。

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