ということで収録の話は終わりました。せっかくですのでそのあとの話もついでに書いておきます。
大阪まで来たのでついでにどこかへ、ということで浜寺公園に行ったはずです。プールかなんかに行ったのでしょうが、私は当時から鉄オタでしたから、そこでのことは覚えていません。それより帰りに時間のかかる阪堺電車に乗って帰りたいとせがんで、これに乗り、途中で乗り換えて長い時間かかかって天王寺の駅前まで行ったことの方が印象強いです。
その後、なんば花月で寄席を見ました。知っている人は出ておらず、浪曲などは退屈でした。新喜劇まで見た記憶がありますが、そこで外に出たようです。知っている「阪神・巨人」が出るまで見たかったのですが、時間がなかったのか、そこまで見せてくれませんでした。
新幹線で帰りました。トンネルだらけの山陽新幹線を予選と本選2回乗ったのですが、面白くありません。この頃から在来線がいいな、と思うようになったと思います。
2週間ぐらいたった頃か、放送がありました。放送前に地元紙のテレビ欄に私が出場する旨、記事が載っていました。放送そのものを見たときの記憶はあまりありません。見たはずですが、きっと恥ずかしくて正視できなかったのでしょう。
この年の夏休みは、嫌いなソフトボール大会は練習にあまり参加しなかったので補欠。ラジオばかり聞いてBCLやFMに目覚めたのもこの夏でした。
その後、事情があって松江の親戚に一週間ほど預けられることになりました。行きは当時の小郡駅からキハ181系の「おき」、帰りは「おき」がとれなかったので下関までキハ82系の「まつかぜ1号」に乗りました。気動車特急・山陰本線は初めてで、乗り鉄的にはこちらの方が強く印象に残っています。
特に帰りの「まつかぜ」は唯一のキハ82系乗車になりましたが、設備も古く、エンジンの加減なのか、力行したかと思ったら減速し、を繰り返し、特急のくせにずいぶんチンタラしているなあ、と思ったことをよく覚えています。
そしてこの車中で見知らぬおばさんから「この前テレビに出ていた子じゃない?」といわれてしまいました。やはりテレビの影響力は大きいなあ、と思ったものです。
夜の下関で下車、山陽線で宇部駅、そこから宇部線に乗り宇部新川駅まで行きました。このとき初めて宇部線の茶色い旧型国電に乗ったのですが、翌年に105系に置き換えられたので、これまた貴重な乗車になりました。
なんだかテレビの話ではなくなり、子供の時の夏休みの思い出&鉄道話になってしまいましたが、これでおしまいにします。