写真のない旅行記

カメラを持たずに旅した記録です。雑記も載せています。

25 菅原洋一「1990年」

   この歌を初めて聞いたのは1980年代初めの頃でしょうか。ラジオから流れてきました。当時、「21世紀」はよく語られていましたが、「近未来」である1990年代という時代についてはほとんど語られることがありませんでした。そもそも、「未来」をテーマにした歌、というのはあまり聞いたことがなく、その意味でも印象に残った曲でした。

 

    歌っている菅原洋一という人については、歌謡曲ファンならよくご存じでしょう。「知りたくないの」やレコード大賞をとった「今日でお別れ」などのヒット曲を持ち、「ハンバーグ」という愛称で知られた実力派歌手です。「ファミリー」という洗剤のCMに家族で出演していた記憶もあります。「ベストファーザー」に選ばれたこともあったように思います。よきお父さん、というイメージを持たれている歌手でした。

 

 その人が歌う、「1990年、娘は21、女の季節を迎えているだろう…」という歌。歌詞からしてその子が生まれたであろう、1960年代後半に作られた歌なのだろうな、と思っていました。菅原氏にもほぼ同年代の娘さんがいらしたはずです。

 

 菅原洋一氏は、昭和40年代(1965~74年くらい)が全盛期で、昭和50年代(1975年~)になると「ヒット曲」と言える曲がなくなっていましたが、1980年代になっても、なぜか紅白に連続して出場を続けていました。 ほぼ毎年、海外の曲を歌っていましたから、おそらく洋モノ要員の実力派歌手として重宝されたのでしょう。

 

 1988年には韓国で確かソウルオリンピック関連の歌番組に出たという記憶があり、チョーヨンピル氏に「紅白に20年以上連続出演している」と紹介されたのを見た覚えがあります。そして昭和最後の年、1988年の紅白にも菅原氏は出場しました。

 

 ちょうどその頃、この歌は日本の歌ではなく、韓国人の「吉屋潤(よしやじゅん・キルオギュン)」氏が作った歌であることを知りました。吉屋氏の娘のことを歌った曲だったのですね。

 

 1989年の大晦日、翌年に「1990年」を控えて菅原氏が紅白でこの歌を歌ってくれるのではないかと期待していました。ところがこの年の出場者名簿に氏の名前はありませんでした。この頃、バブル経済真っ盛り、その影響が紅白にもみられました。この年から数年間、紅白は海外から歌手を招いて出場させるようになりました。そのあおりでこれまで「洋モノ要員」だった菅原氏の役目は終わったのでしょう。

 

 そして海外から招かれた歌手達のうち、韓国からの出場者として「パティ・キム」の名がありました。彼女こそ「吉屋潤」氏の元妻。娘の母だったはずの人です。そして歌った曲は「1990年」ではなく「離別」でした。

 

   近未来だと思っていた1990年、もう30年も前の過去になりました。未来だったことも、時の流れとともに、いつかは遠い過去になっていくものですね。

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