前回、「1990年」という歌を紹介しました。1989年の紅白で菅原洋一氏が歌ってくれればいいのに、と思っていたら落選してしまった、という話でした。
1989年は平成元年、バブル経済絶頂期で景気がよく、新元号に浮かれていましたし、国際化時代、のかけ声も響いていました。
一方で紅白歌合戦は1985年以後、坂道を転げ落ちるように視聴率が低下し、昭和の終わりとともに当時の島会長が紅白の存廃を検討させた、という話を聞いたことがあります。昭和の終わり頃から民謡やオペラ歌手などが出場するようになり、ジャンルを多様化させることで対応していたようですが、さらに、この年から数年間、海外の歌手を出場させるようになりました。バブル崩壊とともに海外歌手の出場はなくなり、まさに「バブル紅白」といえる一時期を画したのですが、海外からの出場者にはアジアの時代、であることも反映して、アジアの人気歌手の出場が目立ちました。
この年の出場者には韓国からの出場者が4人。チョー・ヨンピル、桂銀淑、キム・ヨンジャ、そしてパティ・キムという面々でした。日韓双方で人気があったチョーヨンピル、日本でテレサテンに代わって人気を集めるようになった桂銀淑は順当として、残りの二人は「?」でした。
キム・ヨンジャに関しては、前年のソウルオリンピック関連で「朝の国から」を歌いました。出すのであれば、前年の88年に出場させるべきでしたが、国内では昭和天皇闘病の自粛ムード、明るい歌は避けられ、翌年に出場が持ち越されたのでしょう。
そしてパティ・キム。彼女は日本ではあまり知られていない存在だったと思います。当時の動画を見ると「国際的スター」と紹介されています。アメリカでの活動があったことから、そう紹介されたのでしょう。
彼女は、前回紹介した「1990年」の作詞作曲者、吉屋潤氏の妻だった人物。つまり、「1990年」の主人公、「娘」の母親です。しかし離婚しました。そのとき贈られた歌が「離別」だそうです。
「1990年」を歌っても良さそうなものですが、当時別の歌手が日本で「離別」を歌い、大ヒットしなかったものの「話題曲」程度になっていたので、それなら本家本元、韓国で大物歌手扱いされているパティ・キムを出場させよう、ということになったのだと推測しています。
司会者(三田佳子)が曲紹介の時「イビヨル」と言っているのが気になりますね。
個人的な思い出として、私が新入りのとき、歓迎会で「韓国語の歌を歌える」という話になり、カラオケで歌うことになったのですが、会場のカラオケには韓国の歌でめぼしい歌がこの曲ぐらいしか見当たらず、やむを得ずこの歌を歌ったら顰蹙を買った、という苦い思い出があります。なんだか変なことを思い出してしまいました。
パティキム女史本人は、彼女の代表曲の一つであるこの曲を、離婚の傷を思い出しながら毎回歌ったのでしょうが、乞われれば歌う、というプロの姿勢を貫いたのでしょう。
私はその後この歌を歌う機会はありませんでした。
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