「韓国デパート史」の続きです。
ところで、ソウルにかつて存在した、ミドパ百貨店の前身で戦前にあった「丁子屋」はいったいどうなったのか、ということが気になって、ネットで調べました。しかし「丁子屋」という屋号は今でもあちこちにあって難航。どうやら伊勢商人が朝鮮に進出し、朝鮮各地でデパートをつくっていたらしい、というところまでわかりました。もう少し調べてみました。
伊勢(松坂)商人という言葉が出てきて、そういえばデパートは三越はじめ伊勢商人がつくった呉服屋から発展したものが多い、という話を聞いたことを思い出しました。三越・松屋・松坂屋・伊勢丹・・・。関東系は伊勢商人、関西系は近江商人(高島屋・大丸)が多いということでした。
さらにインターネットでいろいろ見ているうちに近江商人の作ったデパートで「三中井百貨店」というのが出てきました。これはなんと戦前に朝鮮、中国各地に約20店舗を擁したという日系デパートです。以前に読んだ「満洲鉄道まぼろし旅行」という本にもこのデパートが出てきます。植民地地区専門に出店したため、敗戦で全部なくなってしまったそうです。
満洲の新京(現在の長春)店は戦後もデパートとして使われているようでした。しかし京城店はどうなったのか、調べてみたのですがわかりませんでした。鉄筋コンクリートの立派な建物だったようなのですが、戦災にあったのか、どこかの時点で取り壊されたのか、気になるところです。
ということで戦前の京城には三越・丁子屋・三中井という3つの日系デパートがあったことになりますが、もう一つ、忘れてはいけないのが「和信百貨店」です。これは戦前唯一の民族資本系デパートで、日系に比べると小さかったようです。立地も日系が明治町(現明洞)の日系商店街にあったのに対し、北側の鍾路朝鮮人商店街にありました。80年代なかばまで存続したのですが、経済発展の中で鍾路地区が繁華街としては明洞に遅れをとったため、つぶれたそうです。
戦後、丁子屋と三中井はなくなりましたが、その後ネットで調べると、丁子屋は三重県津市で仕立屋として、三中井は滋賀県彦根の洋菓子店として存続しているそうです。私は北海道民ですから残念ながらネットで知っただけです。
ただ、「三中井」というと、小樽市内を列車で通るとき、高架線の上から商店街を眺めると「三中井」という小さな店があったことを思い出します。今は取り壊されて、なくなってしまいましたが、かつての従業員が経営していた、という話をどこかで読んだ記憶があります。あやふやな記憶なので確証がありませんが、気になるところです。
よくわからないのにまとめてしまい、内心忸怩たる思い。日本ではデパートは斜陽化していますが、韓国ではどうのなのでしょうか?
文中でも「そうです」という語尾が多くなってしまいました。正確なことをご存じの方、是非ご指摘いただければと思います。