写真のない旅行記

カメラを持たずに旅した記録です。雑記も載せています。

03  あれから10年~東日本大震災当時考えていたこと<その2>

   東日本大震災当時、書き残していたことの続きを掲載します。また、「これは何なんだ」と思われるでしょうが、当面連日投稿を維持するために、書き残しておいた文章で記事化できそうなものは何でもかんでも掲載する方針です。一部リライトしていますが、当時書いたものです。 当時こんなことを考えていたのだな、と自分と比較していただければ幸いです。  でははじめます。 
 
 
 職場は低地にありますが、田舎ですから高層建築がなく、職場はコンクリートづくりなので上層階なら一番安全そうです。壊滅した町もコンクリート建築の学校や病院は生き残っていたようですね。ここの町役場や病院は浜辺すれすれで、いざというときは機能しないのではないかと危惧されます。
 
 隣町では津波の被害があったようです。家が少し壊れた程度のようでしたが、わずかの差だったのかもしれません。まあ私の家は一番奥で、いざとなれば裏の崖を登ればいいので、町内中心部の平地では一番安全ともいえます。でも崖崩れが起こったら真っ先にダメかも。海辺だと津波が怖いし、奥地や、高台だと崖崩れが怖いし、やっぱりどっちも怖いですね。
 
 まだ貴重品をまとめた荷物は手元に置いたままですが、もうそろそろしまってもいいかな、と考えています。
 
    今日の段階(2011年3月13日)では、まだ室蘭線と函館方面は不通のようです。倶知安方面は動き出したかもしれません。まあ地元情報もテレビやネットで見ていますから、電気が切れるとおしまいですね。新聞もきていました。ヤマト運輸のページを見たら、地元の荷物集配は出来ないようでした。道外との輸送は、落ち着いたら小荷物は飛行機で輸送しますから正常化するでしょう。今日は暖かいようで、雪が溶けて屋根から落ちるのか、ときどき「ドスン」という音がしてびっくりします。
 
 まあ本当は昨日今日のどちらか札幌に行くつもりでしたが、これは無理です。札幌の駅と大通をつなぐ通路が開通したというので、見たかったのですが。そういえば、3連休だったので、新青森から鹿児島中央までの新幹線初乗りも考えていたのですが、これもきっぷ買わなくて良かったです。結局、新青森から鹿児島中央まで行けるようになるのは、相当先になるようですね。夏ぐらいに可能になるか、もっと先か、というところでしょうか?
 
 
  今回自分のいざというときの行動としてわかったのは、やはり私は身の回りのものを確保しないと安心できないし、それがない状態では生きていても仕方がない、と判断したことです。ですから本当にああいう状態になったら、危険でも突っ込んで行くと思います。それで死んだら仕方ないです。実際にもそう判断して亡くなった人が結構いたのではないでしょうか?
 
 次に周囲の人が犠牲になったら、生きていても一生の悔いになると思うだろうな、ということですね。悔いというか、責めというか、そういうのが出来るでしょうね。こういう時はちょっとした判断の違いで生死が分かれるでしょうが、そういうのも含めて運命なんだと思います。