写真のない旅行記

カメラを持たずに旅した記録です。雑記も載せています。

07  あれから10年~東日本大震災当時考えていたこと<その6>

  東日本大震災当時考えていたことを連載しています。今回は報道を見ていて思ったこと、自分の感情の揺れに関することが中心です。今回も2011年、当時書いたものをリライトしています。北海道在住で被災者でも何でもなかったわけですが、それでもこうして延々と書き連ねていましたから、ショックは相当あり、あれこれ考えてこんなことを書いていたわけです。ひねくれた考えもありますが、読んでやってください。
 
 地震の報道を見ていて思ったのですが、私はどうも「お涙ちょうだい」的なことが苦手なのだなあ、と思います。客観的な報道だと興味を持ってみるのですが、肉親が死んだとか見つかったという言うのはどうも苦手で、テレビのチャンネルを変えてしまいます。
 
 普通の人が「感動」とか「感激」とかするところを一緒に感情移入するのがどうも苦手のようです。本当に世話になった人とかが死んだりすると素直に悲しくなることはあるのですが、単に報道だったり、義理的なものだと、嫌、というよりは目を背けたくなってしまうタチのようです。
  
 被災者にインタビューするのを見ると、やはりマスコミで働く人は神経が太くないとできないなあ、ということを感じます。おそらく放送されない中には不愉快なインタビューをされて怒り出している人がいるのではないでしょうか?それに震災直後、SOSを出しているのに上空を通り過ぎるだけ、というのも上から言われたり、マニュアルがあるのでしょうが、普通とは逆の意味でなかなか出来ることではないです。やはり普通なら、つい降りてなんか欲しいものはないか、などと聞いてしまうでしょう。
 
 一方で、2ちゃんねるの書き込みだったか、「あいつが死んだ、ざまあみろ」と内心で喜んでいる人もいるのではないか、というのがありました。実際にはそう思っている人が確かにいるのではないでしょうか?
 
 それから、津波で流されて15キロ沖合で船に見つかって助かった人、というのがいましたが、このニュースはいいニュースには思えませんでした。もしかしたら、発見されずに漂流して、絶望して死んだ人がいるのではないか、そういうことを想起してしまいました。
 
 私がへそ曲がりなのでしょうが、震災報道の中で、「日本がひとつになって、がんばれ東北、前向きに行こう。」とか書いてるのを見ると、正直辟易します。そう思わないとやっていけない人もいると思いますが、もっと実際には複雑でさまざまな、ドロドロした感情がもっとあると思うのに、安易にひとくくりしてしまうのはいかがなものか、と思ってしまいます。