写真のない旅行記

カメラを持たずに旅した記録です。雑記も載せています。

35  東京オリンピック反対派の私

   東京オリンピック、遂に始まってしまいましたが、始まる前から混迷を極めていました。

 

 私は偏屈者ですから、もともと誘致そのものに反対でした。1964年の東京にせよ、1988年のソウル、2008年の北京、2016年のリオデジャネイロなど、この手のイベントは発展途上国が先進国の入口にさしかかった際に国威発揚のためにやる、というのがいいのであって、現在の日本にはふさわしくないと思っています。

 

 1964年の東京オリンピックが日本が先進国になったことを象徴するイベントであったのに対し、今回のオリンピックは招致当初から、日本が先進国から転落することを象徴するイベントになってしまうのではないか、と危惧していました。もちろんそうならないことを祈りますが。

 

 価値観の多様化したした先進国、というより成熟国で、スポーツイベントをやれば盛り上がるだろうという考え方、そして「絆」だの「ひとつになる」だの、学校祭や体育祭のスローガンのようで、個人主義の私には受け入れられません。むしろ足並みの乱れが目立っているのは私個人にとっては好ましいことですらあります。みんながスポーツイベントでひとつになるなんて嫌じゃないですか?

 

 多様な意見のある成熟国ではこんなイベントをする必要がないのですが、1964年の空気・一体感を再現したいと思っている人たちが無理矢理招致してしまったのでしょう。やることになればみんな一致団結して協力するとでも思っていたのでしょうか?

 

 結局わかったのは、IOCの傲慢な体質、アスリートファーストなる欺瞞、イベント産業への利益誘導、国威発揚への協力体制づくり、という、私にとって嫌いなものばかりが目に付きましたが、コロナ禍でメッキが剥がれてしまい、ボロボロになりました。

 

 ただ、コロナ禍のおかげで多くが無観客になりました。北海道でも札幌でマラソンが行われるということで、ボランティアなどというの名の強要に巻き込まれるのではないか、あるいは観客動員に巻き込まれるのでは、などと危惧していましたが、そういうことはありませんでした。今回のオリンピック、反対や中止の声が高まったことで同調圧力が弱まったことは大変よかったと思っています。通常通り開催できていれば、こんなひねくれた考えも書きにくかったのではないか、と思っています。

 

 来冬には北京で冬のオリンピックが開かれて、全体主義者達はおそらく共産体制下で整然と行われるであろう北京冬季オリンピックにほぞをかむでしょうが、このグダグダ感が多様な考え方を発信できるという、現在の日本の現状であり、それは決して悪いことばかりではないと考えるべきでしょう。

 

 イベントの出来で比較すればきっと北京の方が出来はいいことになるのではないかと思いますが、このグダグダ感が今の日本の居心地の良さでもあります。一体感を求めるようなイベントなどやらなければいいわけです。おそらく競技そのものはほとんど見ないと思いますが、閉会式ぐらいは見るかも知れません。

 

 まあ、反対派とは言っても、こうして「反対」ということでブログの一記事を書いてしまうわけですから、その意味では私もイベントの消費者のひとり、となってしまっているのだ、という自覚は持っていますけどね。