写真のない旅行記

カメラを持たずに旅した記録です。雑記も載せています。

56  「ジェンダー」について思うこと

 高校生の時のことですが、当時、私の通っていた学校は、男子が週4時間体育、女子が体育2時間、家庭科2時間、ということになっていました。地域や校種によって多少時間数は違っていたかも知れませんが、基本的には当時「男子は体育、女子は家庭科」ということになっていたはずです。

 

 私が卒業して数年後の90年代の初めに「家庭科男女共修」となり、高校でも男女ともに家庭科を履修するようになったように思います。

 

 さて当時、私は体育が好きではなかったので、「選択制だったら家庭科を選択するのになあ」と思っていました。今考えても、結局ひとり暮らしになって、料理や裁縫の技術を学んでいた方がよかったように思います。

 

 ですが当時私は「男女ともに家庭科を履修すればいいのに」とは思っていませんでした。周りの男子は体育好きが多そうでしたし、それはそれでいいのではないか、と思っていました。

 

 私が望んでいたことは、男女に関わりなく、男子が家庭科を選択してもいいし、女子が体育を選択してもいい、ということにすればいいのに、ということでした。

 

 現実にそうすると、男子の家庭科選択者は数名になったかも知れません。ですが、「男のくせに」ということをいわれさえしなければ、それはそれでいいと思っていたのです。

 

 近頃、ジェンダーをめぐる議論がかまびすしく、正直なところ、どうなのかなあ、と思っています。私は「ジェンダーレス」が正しいとは思えないのです。男の世界、女の世界があってもいいと思うし、性別がある以上当然のこと。ただ、男だから、女だから、と制限されるのではなくて、それぞれ「男の世界」「女の世界」へ相互乗り入れでき、そうすることで「男のくせに」とか、「女のくせに」と言われるようなことがないようにするだけで十分ではないかと思うのです。

 

 「ジェンダー」をめぐっては、差別というよりは「区別」の是非に話が広がっているように思うし、さらにLGBTの問題が絡んで、多くの人はどうしたらよいか困惑している、なかには特に男性の側や行政などで、妙な忖度をしてトンチンカンな対応をしているのではないか、と思われるケースも散見されます。

 

 女性専用車両や選挙のクオータ制などを求める一方で、制服のジェンダーレス化とか、性別記載欄をなくす動きなど、区別したいのかしたくないのかどちらの方向を目指しているのか、私にはよくわからないのです。

 

 「ジェンダー」の問題に限らないのですが、私は基本スタンスとして、「区別はあってもいい」という立場です。そして同時に「当事者がそう望んでいる場合は相互乗り入れはアリ」という考え。そしてマジョリティーに対しては「マイノリティーをマイノリティーとして尊重して欲しい」ということを願います。「男のくせに」「女のくせに」ということを皆が言わなければいいだけのこと。マジョリティーに望むのはそれだけです。

 

 区別をしないで、違いのある人々みんなが同じことをするというのは、かえって「生きづらい」社会を作ってはいないでしょうか?以前、今の時代は「仕事も家事も」要求されるので生きづらくなっているのではないか、という主旨のことを書いたことがありますが、「男は仕事、女は家事」を基本としつつ、バリバリ仕事をしたい女性はそうすればいいし、家庭に入りたい男性は「専業主夫」をやる、そしてそれぞれに対し「女のくせに」「男のくせに」といわない、でいいのではないでしょうか?

 

 今の時代、男も女も外で働かないとやっていけない時代なのかも知れませんし、みんなが「○○のくせに」といわなくなることすら現実には難しいのかも知れません。でも、内心はともかく、口にしないだけでも違ってくると思います。私は以上に述べたような社会の方がお互い生きやすくなると思いますが、皆さんはどう思われますか?