大学講師の白井聡氏がユーミンと安倍首相の親交を知って「夭折すべきだった」とかいて炎上し、反省のつもりで「偉大なアーティストは同時に偉大な知性であって欲しかった。」とか書いてさらに炎上したという話がありました。
経緯はニュース記事を見ていただきたいのですが、たまたま、私も、数少ない知人との個人的なやりとりの中で、安倍氏の話になり、その方も安倍氏の「知性」のなさを問題にしていました。さらに「AERA」配信の記事で、安倍氏の「恩師」だという大学名誉教授が安倍氏に「首相としてもう少し知的になってほしかった」と語ったという記事がありました。偶然なのか、そうではないのか、興味を持ちましたので、考えたことをまとめておこうと思いました。
これもまた、自分の推測と考察に基づく議論です。事実関係に何か間違いがあればご指摘ください。
白井氏はこのところ「武器としての資本論」という著作で話題になっていた人で、「左」の人と認識されているようです。いっぽうで、この人はどうも荒井由実時代のユーミンの歌が好きだったらしく、松任谷になってから、特に最近の劣化を残念がる気持ちと安倍首相との親交を揶揄する気持ちが相まって「荒井由実のまま夭折すれば」という発言になったのだと思います。
ところがその反省のいいわけが「偉大なアーティストは偉大な知性であって欲しかった」、つまり、知性のない安倍氏と親交を結ぶユーミンには知性がない、と捉えられかねない言い分だったので、余計炎上したのでしょう。
以前から感じていたのですが、どうも「左」の人に、トップクラスの大学卒ではない安倍首相を「知性がない」とレッテル貼りして、揶揄する傾向が見られます。
かつては「革新」、今は「リベラル」と言うことが多いようですが、「左」の人にはインテリジェンスを持っているのは「左」で、「右」=自民党支持者は知性がない、と見下す傾向が昔からありました。こうした「左」の「インテリ」層は、マスコミ関係や教員、あるいは地方公務員などのなかに多く存在していました。かつては、家庭の事情で進学できず就職し、読書や労働運動などで「目覚めた」人たちもこの層に入ったのでしょう。この人達は自分たちの上にいる権力者=「エリート」層への反感が強く、権力者を批判することが知性だ、と考えているフシがあったように思います。そして自分たちの「下」にいる、「一般大衆」層に啓蒙すれば彼らも目覚めるはずだ、と考えていたのかも知れません。
確かに自民党が選挙で多数を占めるのは、ムードや人間関係、利害関係で投票行動をする「一般大衆」の支持があるからだと思いますが、しかし「インテリ」層の上には、官僚など「エリート」層があり、この人達は自民党を支える政策を立案し、それに基づいて日本を動かしてきたのですから、本当の知性はそこにあるのだろう、というのが、以前からの私の見立てで、特に「昭和」の頃には強くそう思っていました。
現在では「一般大衆」層に加え、国公立や有名大学卒の大企業のサラリーマンなど、「インテリ」層を構成している人々も幅広くなりました。学生運動の挫折や社会主義体制の崩壊を見てきた世代でもある、彼らのなかには「反権力=左」の思想に疑念を持ち、「左=知性」という従来型の観念にも疑問を持ち、さらにその一部は、一般大衆的な「反知性主義」にも結びついていった、という図式が形成されてきたように思います。そんな中で、安倍首相を「非知性的」とレッテル貼りすることは、この層を刺激し、反発をもたらします。白井氏の騒動もこの図式が当てはまると思ったのです。
もしかしたら、「左」の「インテリ」層の中に、安倍首相は、自分たちの下にいる「一般大衆」層にいるべきなのに、家柄で政治家になり、「エリート」層のトップとして自分たちの上にいるのは不快だ、という思いが言外にあり、普段は差別を強く否定する彼らも、「本音」が顔を出してしまった、というところなのかも知れません。こういうと言いすぎでしょうか?
続きは明日掲載します。