写真のない旅行記

カメラを持たずに旅した記録です。雑記も載せています。

97  「排外主義」を考える<その2>

 前回に続いて、近頃問題になっている「排外主義」について考えていきます。

 

 まあ、前回「排外主義者ではない」と言っている私でも、見た目で「えっ」となってしまう部分は正直あるということを白状しましたが、言葉って案外重要で、見た目がどうでも日本語が使える人には警戒心を解いてしまいます。ただし、海外で日本語を話す人に安易に気を許すのはよくないし、逆に言えば、国内にいる日本人でも口の利き方が悪い人は警戒対象になってしまいますね。

 

 特に家族連れや団体旅行の観光客が外国語で声高に話しているのを見ると、違和感を感じてしまうのは事実です。ですが労働者はともかく、観光客に日本語を勉強してから来い、とはいえません。ですから日本で働いている人よりも、観光客の方に違和感を感じる場合が多いと思います。

 

   そう考えると、自分もひとり旅派ですが、ひとり旅の人にはあまり違和感を感じないのかもしれないですね。自分の海外でも振る舞いはどう見られているのかわかりませんが、ひとり旅の方が違和感を感じられにくいのかな、と思います。

 

 一昔前、海外でひんしゅくを買っていた日本人観光客も農協などの団体ツアーでしたから、団体観光客というのが鬱陶しく思われがちなのかもしれないです。「お上りさん」的な団体旅行ってマナーに問題があったり、外国事情の理解が十分ではなく、ひんしゅくを買いやすい、という側面はありそうです。

 

 団体ツアーが減って個人客が増えてくると垢抜けてるくるようにも思うのですが、それでも絶対数が多すぎると、やはり「おやおや」と思ってしまうのでしょうかね。なかなか難しいところです。

 

 あと、ひとり旅ではなく家族で来る外国人観光客層に対しては「富裕層なんだろうな」というある種の妬みを感じますが、私よりもその妬みが海外に行かない層には強いのかもしれません。

 

 例の「日本人ファースト」というスローガンも、日本人が貧しくなったことの裏返しで、海外に行ける人が減少し、再分配においても日本人が優先されてほしい、というゆとりのなさが背景にあることは間違いありません。

 

 東南アジアに行くと、日本の援助で作られたインフラがあり、それを示す表示があると、正直、日本人としてちょっと誇らしい気持ちが生じますし、またそれが日本の国際的地位の向上やひいては安全保障にプラスになってきたと思います。

 

 けれども、こういうものに接していない人は、海外援助などとんでもない、そんな金があるのなら俺たちに回してほしい、というのが本音なのでしょうね。日本も昔のようにふんだんにODAをばらまくわけにもいかなくなっており、東南アジアのインフラも「過去の日本の栄光の遺産」という気がしないではありません。

 

   「排外主義」の問題に限りませんが、従来、様々な面で一応の国民的コンセンサスがあったものが崩れてきている気がします。精神的にも経済的にもゆとりがなくなると、自分と違うものに配慮する余裕はなくなるものです。

 

 移民は少し別なので機会があれば別記事を書こうと思うのですが、「国際化を受け入れる」という考え方そのものは国民的コンセンサスがあったものの一つだったと思います。ですが、そうでなくなってきていることに、私も含めて驚いているわけです。

 

 まとまりがなくなってきましたが、私は「区別」は残してほしいとは思いつつも、多文化共生を受け入れざるを得ないところまで来てしまっていると思います。

 

 「日本人ファースト」といって参政党などが躍進しても、実際それを実現するのは難しいところまで来ているのではないでしょうか?無理な戻し方をしてもこの国の利益にはならないと思いますね。